レトロとモダンが息づくまちかど、飯田橋から始まる秋の末散歩 2023/12/3

さあ、今日も駅からハイキング!

スタートは飯田橋駅だ。前回の駅と違って、「大人気の駅からハイキング!今日が最終日ですよ~」と呼び込み(?)もにぎやかだ。

飯田橋駅

駅から見る神楽坂

坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、 若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

坂道沿いに軒を連ねるお店がおしゃれなカフェだったり、美味しそうな中華屋さんだったり、覗いて歩くのも楽しい。

少し坂を上がった左側にある毘沙門天善國寺の境内では「越前若狭祭り」が行われていた。

神楽坂は福井県ゆかりの地です。

江戸時代、小浜藩江戸屋敷は神楽坂周辺にありました。 寛永5年(1628年)に酒井忠勝が三代将軍徳川家光からこの地を拝領し、 後に若狭国(福井県) 小浜藩下屋敷となったのがはじまりです。 神楽坂通りは、酒井家の下屋敷と牛込御門を結ぶ約1kmの道を、 忠勝の登城道として寛永年間に整備したものです。

坂を上りきってさらに西に進むと早稲田に近づく。そんな場所に漱石山房記念館があった。

漱石が亡くなるまでの9年間を過ごした「漱石山房」の跡地

夏目家で飼った動物のうち、『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」は、明治四十一年(一 九〇八) 九月十三日に亡くなると、裏庭のサクラの木の下にみかん箱に入れて埋葬され、「この 下に稲妻起こる宵あらん」という句を添えた二寸角の白木の墓標が建てられた。その後、文鳥も合葬された。犬のヘクトーの墓も近くに建てられ、「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という句を添えた。猫の墓と呼ばれるこの石塔は、福猫の十三回忌にあたる大正九年(一九二〇) 夏目家で飼われた生き物たちを供養するため、漱石の長女・ 筆子の夫・松岡 譲が造らせた九重塔で、台石には津田青楓の描いた猫・犬・鳥の三尊像が刻まれていた。しかし、昭和二十年(一 九四五)五月二十五日に空襲で漱石山房が焼失した際に損壊し、現在の石塔はその残欠を利用して昭和二十八年(一九五三)十二月九日に再興されたものである。現存する漱石山房の唯一の遺構である。

 

ここで折り返して来た道を戻るように進むと、左手に牛込の総鎮守赤城神社がある。

赤城神社

日枝神社」「神田明神」とともに、江戸の三社だそうだ。

赤城神社の拝殿

ガラス張りの社殿は隈さん設計じゃなかったかな…たしか

初めて見たときはあまりにモダンな神社なのでびっくりした。

 

神社の北側が急斜面になっていて見晴らしがよいのだが、小さなお社があるのに気づいて降りてみた。

赤城出世稲荷神社

ご祭神

宇迦御霊命 /保食命

創記は詳らかではありませんが、赤城神社が当地にお遷りする以前(弘治元年1555年)から地主の神と尊ばれ鎮座。出世開運のご利益があるとして大名・公家の崇敬を受けておりました。また穀物・食物を司る神様として、五穀豊穣、衣食住、商工業繁栄のご神徳を備えておいでです。現在は神楽坂商店街などの商売繁盛と近隣サラリーマンの崇敬を集めております。戦前まで5月5日の例祭日にはお神楽が奉納されていました。

八耳神社

ご祭神 上宮之厩戸豊聰八耳命(別称:聖德太子)

戦火で焼失した昔の「太子堂」です。この八耳様は「あらゆる事を聞き分ける天の耳」を持つ聖徳太子であり、聡明な知恵を授かることができます。なにか悩み事のある時は「八耳様・八耳様・ 八耳様」と三回唱えてからお参りすると、自ずと良い考えが浮かぶと伝えられる。また耳の神様として広く信仰を集め、耳の病気や煩いを治してくれるとして、全国各地から参拝に訪れている。 合殿に大国主大神、丹生大神、を祀ります。

葵神社

ご祭神 徳川初代将軍徳川家康

牛込西五軒町天台宗宝蔵院に鎮座していたが、明治元年神仏混合を廃止された際に當境内へ遷座。徳川家初代将軍として江戸時代の政治、文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。かつては江戸市民の家康公への信仰の対象でしたが、現在は神楽坂の「東照宮」として親しまれ、学問と産業の祈願成就を願って、参拝する方に心の安らぎを与えてくれます。

合同庁舎なんですね。

 

赤城神社の東には筑土八幡神社がある。

筑土八幡神社

筑土八幡神社由来

昔、嵯峨天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をた

れん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわして、その松を祀った。 その後、伝教大師がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して詞に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年の戦災で焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町津久戸町東五軒町・新小川町・下宮比町揚場町神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。

小石川後楽園

園内は紅葉がきれいでにぎわっている様子だったが、西門から東門へと壁の外を歩く。つわぶきが花盛りだった。

ここから南へ。

水道橋駅の脇を通り九段を通り、江戸城清水門へ。

蓮池越しに武道館を見る

ここから見るのは初めてだ。夏には花が咲くのかしら。。

清水門

重要文化財江戸城清水門

昭和36年6月7日指定

江戸城は、長禄元年 (1457) に太田資長 (道潅)によって創られたとされる。 天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592) から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607) に天守閣が、寛永13年 (1636) に総構が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657) をはじめ、数度の大火に見舞われたものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。

清水門は、北の丸北東部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現存の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から万治元年(1658)に建てられたものであると考えられ ている。しかし、櫓門の上部は、時期は不明ながら撤去されていたものを昭和36~41年度の修理で復旧整備したものである。清水門は、建立年代の判明する江戸城の遺構として高い価値を有しており、門から北の丸に至る石段とともに 江戸時代の状況を色濃く残している。

北の丸公園の紅葉(黄葉)がきれい

武道館ではGLAYのコンサートがあるらしい

田安門

重要文化財江戸城田安門

昭和36年6月7日指定

江戸城は、長禄元年(1457) に太田資長(道潅)によって創られたとされる。 天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592) から大規模な改修が 実施され、慶長12年(1607) に天守閣が、寛永13年 (1636) に総構が完成し、 大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657) をはじめ、数度の大火に見舞われたものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。

田安門は、北の丸北部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から寛永13年に建てられたものであると考えられている。 しかし、櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたものを、昭和36~41年度の修理で復旧整備したものである。田安門は、 江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建物であり、高い価値を有している。

 ↑ 説明文が清水門とほとんど同じだ。(実はgoogle先生が脱字を指摘してくれたのでここでは足しておいたけれど、抜けている字も一緒)

 

九段の燈台と靖国神社

穏やかな明るい晩秋の光で、写真の腕も上がった気がする。('◇')ゞ

ここから飯田橋駅に戻り、ゴールだ。

両側の石垣が牛込見附跡

お天気も良く、ほどよい距離に見どころいっぱいの楽しい街歩きだった。

 

9.5Km