韮崎の花と歴史めぐり~樹齢約330年の一本桜「わに塚のサクラ」と甲州街道「韮崎宿」を歩く~ 2024/04/06

この季節、一面に広がる桜の雲のような風景を見るのもいいものだが、一本桜も魅力的だ。

駅からハイキングのコースに「わに塚のサクラ」というのがあったので韮崎に行ってみることにした。ただしコースでは「わに塚のサクラ」は最後のほうなので、朝早く家を出ても午後になってしまうかもしれない。なるべく人の少ない時間帯に着きたいと思って、コースを逆回りすることにした。

正規のルート

韮崎駅

サイクリングの準備をしている人がチラホラ。気持ちよさそう。さぁ、私も歩きますよ~

平和観音

路地を曲がると突如現れた観音様。市民の平和 と登山者の安全を祈願して富士山の方向を向いているそうだ。

 

 

願成寺

逆回り最初の訪問場所は願成寺だ。桜が満開で美しい。

曹洞宗鳳凰山 願成寺

宝亀二(七七一)年、権大僧都心休了愚法印により 開創され、京都祇園寺の末寺であった。延長六(九二八) 年、仏刹を建立して地蔵菩薩を安置し願成寺と号す。 武田信義(一一二八~一一八六)武田の荘に館を営み、この寺を祈願寺として中興す。後白河法皇山号を奉請。京都の佛師に懇請し造顕した木造阿弥陀三尊を奉安す。(重要文化財)  降って中世末戦国時代、武田信玄の甥俊虎和尚のとき、臨済宗に改宗し諸堂を整え寺運興隆す。俊虎和尚の中興本願に応じて、永禄二(一 五五九)年二月、甘利住武川衆曽雌対馬守定能が、木造阿弥陀三尊を寄進している。(御霊殿安置の市文化財)

天正一〇(一五八二)年、織田信長の兵火に伽藍烧火 。復興緒についた慶長一二(一六〇七)年、寺より出火再度の火災に衰退にひんしたるも、前記二組の阿弥陀三尊が焼亡を免れて今日に伝えられたことは不幸中の幸まことに奇瑞と云うべきである。

寛永一五(一六三八)年、然室応廊和尚を迎え、曹洞宗に改め復興緒につく、万治元(一六五八)年弟子で当地出身の赫山和尚法燈を嗣ぐや、桔据経営廃れたるを興し、欠けたるを補ひ一山の面目を保つに至る。即ち寛文年間に庫裡を、元禄年間に本堂受付を建立し、什器を整 えて今日に至る。この間、廃仏棄釈、不況、戦争等の世相に荒廃余儀なき約一世紀を経過し、現在、境内伽藍の復興整備中なり。

願成寺境内で

さて、スタートから一時間ほど歩いてようやくわに塚にやってきた。

わに塚のサクラ

樹齢約330年の塚の上に立つ一本桜。晴れていれば富士山や八ヶ岳をバックにした美しい写真が撮れるそうだが、雲が垂れ込めている中に立つこの姿も神々しい感じがする。

桜の周りを2周も3周もし、富士山が見えないかと待っていたが無理だった。

 

後ろ髪ひかれる思いで、次に訪れたのは武田八幡宮だ。

武田八幡宮

当社は弘仁十三年に勅命によって、九州宇佐神宮の御分霊を勧請奉祀し、 地神の武田武大神と併祀して武田八幡宮と称したという。甲斐源氏の崇敬を あつめ、甲斐武田氏の初代当主となる甲斐守義光の曾孫龍光丸は、当社で元服を行い武田信義と名乗ったと伝わり、以来この郷一帯を寄進して当社を氏神とした。戦国時代になると武田信虎が信義以来信仰の厚い当社の再建に着手し、その後武田晴信(信玄)が天文十年(一五四一)に当主になると本殿再建を引き継ぎ、同年十二月二十三日に完成させ、現在もその姿を残している。勝頼の代になると、勝頼夫人が戦勝を祈念して天正十年二月十九日に奉納した願文は、武田氏を守る神社として厚く信仰されていたことを示している。武田氏が滅亡した後も徳川氏等によって保護されながら、広く信仰された神社である。

韮崎市教育委員会

 

武田八幡宮から韮崎の町を望む

拝殿前で巫女さんがなにやら説明をしていた。参拝の人が賽銭箱はどこだと聞いたようだ。こんな山深い静かな神社でも賽銭箱を室内にしまわなければならないほど不心得者が多いのだろうか。

 

武田八幡宮からだらだら坂を下って、今度は韮崎の偉人「大村智」博士の邸宅の周辺へ向かった。

韮崎大村美術館には、博士が大村智博士が長年に渡り蒐集(しゅうしゅう)した、日本を代表する女流美術作家を中心とした作品が展示されていた。そのほかに博士の業績に関する部屋が一つあって、ノーベル賞のメダルをはじめ、様々なメダルや賞状、博士が開発した薬品類も飾ってあった。スポーツもお好きだったようで、スキー板、卓球のラケット、ゴルフクラブなどもあった。

韮崎大村美術館は、神山町出身で韮崎市名誉市民である大村智博士が二〇〇七 年に建設しました。博士は、微生物が生産する化合物五百種余りを発見し、それらのうち、二十六種が医学、動物薬、農薬、生化学研究用試薬として世界中で使用されています。中でもイベルメクチンは、熱帯地域を中心に流行しているオンコセルカ症並びにリンパ系フィラリア症の特効薬として使用され、多くの人々がこれらの病から救われています。 これらの業績により、博士は国内外の多くの賞を受賞し、薬化学分野では我が国で初の米国科学アカデミー外国人会員に選出された他、六か国の科学アカデミーの会員に選出されています。そして、「線虫感染症の新しい治療法の発見」により二〇一五年ノーベル生理学・医学賞を受賞いたしました。 博士は、著名な天然物有機化学者である一方、芸術にも造詣が深く、長年収集 してきた美術品は膨大な数にのぼります。韮崎大村美術館は、博士の「ふるさとに美術館を」という熱い思いから建設に至り、二〇〇八年に韮崎市に寄贈され、 市立美術館として運営しております。博士の思いを大切にし、市民から親しまれ る文化施設としてさらに発展させるべく今後も努力してまいります。

平成三十一年三月三十一日

韮崎市長 内藤 久夫

2階の展望室からの眺め

大村美術館から韮崎駅へ向かう道は「幸福の小径」というそうだ。途中で八ヶ岳が見えてきた。

うっすらと八ヶ岳

幸福の小径

 

さて、ゴールの韮崎駅ももうすぐだ。けれどそこを通り過ぎて、姫神神社に行ってみよう。

姫宮神社の由来

 

姫宮神社は韮崎町船山の上にあり、社地六〇坪、初め氏神の相殿として祭り、後に災難 除、交通水路海上の守護神として崇敬された神であり、例祭は八月十五日、この祭神は本 社が九州福岡の宗像神社の三女神で渚津姫命、市杵島姫命田心姫命を祀っております。 甲斐国社寺記には「建久四年(一一九三年)相州鎌倉より越牧氏三女神を勧請して相殿に祭る」とあり、なお宝暦四年(一七五四年)問屋源助、名主甚八郎、百姓代善兵衛らより 神主腰巻越後を通し今沢大進宛祭礼届の文書によると氏神若宮八幡宮末社姫宮大明神とある鎌倉時代の幕府などの崇敬が厚かつた江の島神社も同神で姫宮の祭神は江の島三女神を勧請したものであろうと言われています。国道二十号バイパス道路開設のため、その敷地として一部削られている。祭典当日は昔から草相撲が盛んに行われ、現在も子供相撲が続 けられ伝統あるふるさと祭りとして人々の和をひろげ大盛況であります。 -

 

ー参考図書・甲斐国志・韮崎市誌ー

姫神神社

お社の脇に古い石でできているけれどもモダンな感じがするオブジェがあった。

ひょっとしてこれは覗くのかしら…

おお、やっぱり!富士山を遥拝する装置なのだ。鏡石というそうだ。

帰る頃になってようやく富士山が見えてきた。

韮崎駅から

今回のハイキングは桜が満開の時期に歩くことができてラッキーでした。

12.2Km