「スポーツ」「伝統」文化のまち信濃町行脚 2022/02/27

ようやく春めいてきた日曜日、信濃町周辺を散歩した。

まずは、駅の南へ下って明治記念館の角を東へ。迎賓館へ向かう。

迎賓館正面は白い壁で囲われていた。工事中?

学習院初等科の脇を通っていったん新宿通りへ。そこからまた住宅街を歩く。

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たい焼きわかば

おお、こんなところに有名なたい焼き屋さんが…

一度いただきものを食したことがあるが、ずいぶん塩の効いたあんこだと思った。

 

次は浄土宗西念寺服部半蔵のお墓があった。

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服部半蔵の墓

新宿区指定史跡
服部半蔵の墓

所在地 新宿区若葉二丁目九番地
指定年月日 昭和五十九年七月六日
服部半蔵(一五四二~九六)は、本名を正成といい、徳川家康三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将である。
「鬼の半蔵」として知られ、元亀三年(一五七二)三方ヶ原の戦い天正十八年(一五九〇) 小田原攻めで功をあげ知行八千石を賜り、同年の家康の江戸入府後は、江戸城西門近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。 半蔵は、天正七年(一五七九) 家康の長男信康が切腹する際介錯役を命じられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。
文禄二年(一五九三)には家康から寺院を建立するよう内命をうけたが、慶長元年(一五九六)十一月、五十五歳で没した。 西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永十一年(一六三四) 江戸城の外堀拡張・新設の際現在地に移転したものである。

平成十七年二月
新宿区教育委員会

 

西念寺から短い坂道を下って次は須賀神社へ。

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須賀神社

神社へ上る石段は、映画「君の名は。」のラストで三葉と瀧が再会した場所だ。

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須賀神社への参詣道 階段下で輪になっているのは聖地巡りの人たちかな

 

四谷の総鎮守 須賀神社」 と三十六歌仙
須賀神社について〕
四谷の産土神(うぶすながみ) で、祭神は建速須佐能男命(たけはやすさのおのみこと) と宇迦能御魂命(うかのみたまのみこと) の二柱です。 かつては、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と稲荷社の二つの神社であったもので、江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、明治にはいり須賀神社と改められました。 稲荷天王合社のうち稲荷社の由来については、次の二説が伝えられています。
一つは、かつては麹町十一丁目清水谷にあり、 一ツ木村の鎮守であったものが、 同村にあった別当宝蔵院(神仏習合の時代、神社には別当寺があり、 そこの僧侶が社僧として神社の儀式に携わりました)が、寛永11年 (1634) に現在の須賀神社の場所に移ったのを機に、稲荷も移転してきたというものです。 もう一つは、稲荷社は、 現在の勝興寺 (須賀町八番地) 境内にあった椎の大木の根元に祀られており、宝蔵院が清水谷にある頃から稲荷社まで注連縄飾りの奉仕に来ていたため、寛永11年 (1634) に勝興寺が 移転してきた時、相談のうえ宝蔵院(現在の須賀神社)に遷座したという説です。
牛頭天王社のほうは、寛永18年 (1641) に、 神田明神境内の牛頭天王社を四谷のお仮屋横町付近に小祀を建て祀ったものだそうです。 ところがこの牛頭天王社に参詣人が多かったため、寛永21年(1644) 寺社奉行に願い出て、 同年6月18日に宝蔵院境内の稲荷社と合祀し、現在の稲荷天王合社となったものです。以来、稲荷は鮫河橋・権田原の、天王は四谷の鎮守として崇敬され、現在は四谷地区十八町会が氏子町となっています。


三十六歌仙絵・・・ 新宿区指定有形文化財 絵画〕
(昇殿拝観は許可制です。)
三十六歌仙絵は、平安時代中期の公卿藤原公任(ふじわらのきんとう) (966~1041) が、 過去および同時代の優れた歌人三十六名を選定したもので、 万葉歌人から柿本人麿・山部赤人大伴家持の三名、平安時代前期の 『古今集』『後撰集』頃の歌人から紀貫之在原業平 小野小町ら三十三名が選ばれています。 三十六歌仙絵は、それぞれの歌人肖像画に代表作一首を書きそえたもので、平安時代後期に出現した似絵(にせえ) という肖像画の影響をうけ、鎌倉時代初頭に成立し、江戸時代まで盛んに描かれました。須賀神社三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたものです。 縦55cm・横37cmの絹地に彩色したもので、現在は額装され社殿内に掲げられています。当時、画家として高名だった四谷大番町(大京町)に住む旗本大岡雲峰 (1764~1848) の絵と、和歌や 書画で人気を博した公卿千種有功(ちぐさありこと) (1797~1854) の書により、 天保7年(1836) に完成奉納されたもので、 四谷の総鎮守として信仰をあつめた須賀神社の隆盛を物語る文化財の一つです。

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三十六歌仙絵のレプリカ

三十六歌仙のうち、百人一首でおなじみの二首の写真を撮ってきた。

  • こひすてふわが名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか
  • しのぶれど色にいでにけりわが恋は 物や思ふと人のとふまで

 

次はお岩さんにかかわる寺社へ。

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於岩稲荷田宮神社

東京都指定旧跡
田宮稲荷神社跡
所在地 新宿区左門町一七 標 識 昭和六年一二月二日
指定 昭和三〇年三月二八日 
田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永 一三年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。
鶴谷南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政八年(一八二五)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは二百年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は明治一二年(一八七九)に火事で消失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和六年(一九三一) に指定されました。戦後、昭和二七年(一九五二)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会

お言葉お守りを参拝記念にどうぞ、とあったので、一枚いただいてきた。

きれいな字で一枚一枚違う言葉がしたためてある。

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学ぶ道絶えることなくわが心育む

 

田宮神社の向かいには長照山陽運寺がある。こちらも「お岩さんのお寺」と言われているようだが??? カフェがあったりして若い女性に好まれそうな雰囲気だ。

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陽運寺の門と縁切り、縁結びの絵馬

絵馬は六四ぐらいで縁切りの願いが多い。

 

左門町から大通りへ出て、信濃町駅へ戻る。次は駅南側のスポーツの街へ。

絵画館前に行くと大学生の自転車レースが行われていた。

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明治神宮外苑大学クリテリウム

自転車のことを銀輪というが、その響きからは、いかにも春の日差しを反射させて走るさまが想像できて、もしかしたら春の季語かな?などと思ってしまう。(実際の競技用自転車はもう銀色ではないようですね。。)

 

この後は、野球場やラグビー場や国立競技場を遠巻きにして歩き、千駄ヶ谷鳩森八幡神社へ。

 

鳩森八幡宮にも富士塚がある。都内で最も古いものだそうだ。

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富士塚の案内板と鳩のおみくじ 

暖かくなったので、境内の河津桜が一気に開花したようだ。

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忙しく飛び回る蜜蜂とメジロ

 

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8.5Kmの春散歩でした。