たまには読書でも…(7)

最近、本を読もうと思ってもすぐ眠くなってしまって…

Amazonのaudibleというのに手を出してみた。2月の初めのことだ。(その頃2か月無料キャンペーンというのをやっていたので…)

聞くのなら通勤時でも、散歩の最中でも物語を楽しめる。

 

最初に聞いたのは

伊集院静 「ミチクサ先生」上下

夏目漱石の話だ。正岡子規との関係など生き生きと描かれていて面白かった。

 

その次に、漱石の前期三部作「三四郎」「それから」「」を聞いた。

文字では絶対に読破することはできなかっただろう。朗読してくれるってありがたいものだと思った。

最初は有線のイヤホンで聞いていたが、接触の加減かしょっちゅう途切れたり、Googleアシスタントが立ち上がったりして具合が悪かったので、途中でBluetoothのイヤホンに変えたところ、まぁ、快適!コードがないだけでこんなに自由になれるのだ。

 

そこで今度は現代の作品に挑戦しようと思って、村上春樹の「ノルウェイの森」上下を選んだ。村上春樹って読んだことがなかったが、毎年ノーベル賞候補として話題になるくらいだから素晴らしいのだろう… と思って読み始めたが、まったく期待外れだった。

セックスと、身近な人の理由のわからない自死ばかり。性と死を通して生を探るということなのかしら… いやいやびっくり、どうしてこれがノーベル賞候補?という感じ

 

ちょうどその頃、2か月の無料期間が切れるので、もともとaudibleは高いし、もうやめようと思い、解約手続きに進むと「本当にやめるの?3か月半額でいいよ」と言ってきた。そう?じゃぁ、あと3か月続けてみるかと、本屋大賞をとったと話題になっていた 宮島未奈成瀬は天下を取りにいく」を聞く。

滋賀のローカルな話題は興味深かったが、まぁ、全体的に漫画ののりといった感じ。(すみませんね、おばさんなので)

 

気を取り直して、もう一度だけ村上春樹を読んでみようと思い、今度は「海辺のカフカ」を選んだ。朗読(木村 佳乃)が上手なせいか、ノルウェイの森よりはストーリーが面白く頭に入ってくる。

↑ 現在地はここ。さぁ、3か月後どうしようかな~

 

 

韮崎の花と歴史めぐり~樹齢約330年の一本桜「わに塚のサクラ」と甲州街道「韮崎宿」を歩く~ 2024/04/06

この季節、一面に広がる桜の雲のような風景を見るのもいいものだが、一本桜も魅力的だ。

駅からハイキングのコースに「わに塚のサクラ」というのがあったので韮崎に行ってみることにした。ただしコースでは「わに塚のサクラ」は最後のほうなので、朝早く家を出ても午後になってしまうかもしれない。なるべく人の少ない時間帯に着きたいと思って、コースを逆回りすることにした。

正規のルート

韮崎駅

サイクリングの準備をしている人がチラホラ。気持ちよさそう。さぁ、私も歩きますよ~

平和観音

路地を曲がると突如現れた観音様。市民の平和 と登山者の安全を祈願して富士山の方向を向いているそうだ。

 

 

願成寺

逆回り最初の訪問場所は願成寺だ。桜が満開で美しい。

曹洞宗鳳凰山 願成寺

宝亀二(七七一)年、権大僧都心休了愚法印により 開創され、京都祇園寺の末寺であった。延長六(九二八) 年、仏刹を建立して地蔵菩薩を安置し願成寺と号す。 武田信義(一一二八~一一八六)武田の荘に館を営み、この寺を祈願寺として中興す。後白河法皇山号を奉請。京都の佛師に懇請し造顕した木造阿弥陀三尊を奉安す。(重要文化財)  降って中世末戦国時代、武田信玄の甥俊虎和尚のとき、臨済宗に改宗し諸堂を整え寺運興隆す。俊虎和尚の中興本願に応じて、永禄二(一 五五九)年二月、甘利住武川衆曽雌対馬守定能が、木造阿弥陀三尊を寄進している。(御霊殿安置の市文化財)

天正一〇(一五八二)年、織田信長の兵火に伽藍烧火 。復興緒についた慶長一二(一六〇七)年、寺より出火再度の火災に衰退にひんしたるも、前記二組の阿弥陀三尊が焼亡を免れて今日に伝えられたことは不幸中の幸まことに奇瑞と云うべきである。

寛永一五(一六三八)年、然室応廊和尚を迎え、曹洞宗に改め復興緒につく、万治元(一六五八)年弟子で当地出身の赫山和尚法燈を嗣ぐや、桔据経営廃れたるを興し、欠けたるを補ひ一山の面目を保つに至る。即ち寛文年間に庫裡を、元禄年間に本堂受付を建立し、什器を整 えて今日に至る。この間、廃仏棄釈、不況、戦争等の世相に荒廃余儀なき約一世紀を経過し、現在、境内伽藍の復興整備中なり。

願成寺境内で

さて、スタートから一時間ほど歩いてようやくわに塚にやってきた。

わに塚のサクラ

樹齢約330年の塚の上に立つ一本桜。晴れていれば富士山や八ヶ岳をバックにした美しい写真が撮れるそうだが、雲が垂れ込めている中に立つこの姿も神々しい感じがする。

桜の周りを2周も3周もし、富士山が見えないかと待っていたが無理だった。

 

後ろ髪ひかれる思いで、次に訪れたのは武田八幡宮だ。

武田八幡宮

当社は弘仁十三年に勅命によって、九州宇佐神宮の御分霊を勧請奉祀し、 地神の武田武大神と併祀して武田八幡宮と称したという。甲斐源氏の崇敬を あつめ、甲斐武田氏の初代当主となる甲斐守義光の曾孫龍光丸は、当社で元服を行い武田信義と名乗ったと伝わり、以来この郷一帯を寄進して当社を氏神とした。戦国時代になると武田信虎が信義以来信仰の厚い当社の再建に着手し、その後武田晴信(信玄)が天文十年(一五四一)に当主になると本殿再建を引き継ぎ、同年十二月二十三日に完成させ、現在もその姿を残している。勝頼の代になると、勝頼夫人が戦勝を祈念して天正十年二月十九日に奉納した願文は、武田氏を守る神社として厚く信仰されていたことを示している。武田氏が滅亡した後も徳川氏等によって保護されながら、広く信仰された神社である。

韮崎市教育委員会

 

武田八幡宮から韮崎の町を望む

拝殿前で巫女さんがなにやら説明をしていた。参拝の人が賽銭箱はどこだと聞いたようだ。こんな山深い静かな神社でも賽銭箱を室内にしまわなければならないほど不心得者が多いのだろうか。

 

武田八幡宮からだらだら坂を下って、今度は韮崎の偉人「大村智」博士の邸宅の周辺へ向かった。

韮崎大村美術館には、博士が大村智博士が長年に渡り蒐集(しゅうしゅう)した、日本を代表する女流美術作家を中心とした作品が展示されていた。そのほかに博士の業績に関する部屋が一つあって、ノーベル賞のメダルをはじめ、様々なメダルや賞状、博士が開発した薬品類も飾ってあった。スポーツもお好きだったようで、スキー板、卓球のラケット、ゴルフクラブなどもあった。

韮崎大村美術館は、神山町出身で韮崎市名誉市民である大村智博士が二〇〇七 年に建設しました。博士は、微生物が生産する化合物五百種余りを発見し、それらのうち、二十六種が医学、動物薬、農薬、生化学研究用試薬として世界中で使用されています。中でもイベルメクチンは、熱帯地域を中心に流行しているオンコセルカ症並びにリンパ系フィラリア症の特効薬として使用され、多くの人々がこれらの病から救われています。 これらの業績により、博士は国内外の多くの賞を受賞し、薬化学分野では我が国で初の米国科学アカデミー外国人会員に選出された他、六か国の科学アカデミーの会員に選出されています。そして、「線虫感染症の新しい治療法の発見」により二〇一五年ノーベル生理学・医学賞を受賞いたしました。 博士は、著名な天然物有機化学者である一方、芸術にも造詣が深く、長年収集 してきた美術品は膨大な数にのぼります。韮崎大村美術館は、博士の「ふるさとに美術館を」という熱い思いから建設に至り、二〇〇八年に韮崎市に寄贈され、 市立美術館として運営しております。博士の思いを大切にし、市民から親しまれ る文化施設としてさらに発展させるべく今後も努力してまいります。

平成三十一年三月三十一日

韮崎市長 内藤 久夫

2階の展望室からの眺め

大村美術館から韮崎駅へ向かう道は「幸福の小径」というそうだ。途中で八ヶ岳が見えてきた。

うっすらと八ヶ岳

幸福の小径

 

さて、ゴールの韮崎駅ももうすぐだ。けれどそこを通り過ぎて、姫神神社に行ってみよう。

姫宮神社の由来

 

姫宮神社は韮崎町船山の上にあり、社地六〇坪、初め氏神の相殿として祭り、後に災難 除、交通水路海上の守護神として崇敬された神であり、例祭は八月十五日、この祭神は本 社が九州福岡の宗像神社の三女神で渚津姫命、市杵島姫命田心姫命を祀っております。 甲斐国社寺記には「建久四年(一一九三年)相州鎌倉より越牧氏三女神を勧請して相殿に祭る」とあり、なお宝暦四年(一七五四年)問屋源助、名主甚八郎、百姓代善兵衛らより 神主腰巻越後を通し今沢大進宛祭礼届の文書によると氏神若宮八幡宮末社姫宮大明神とある鎌倉時代の幕府などの崇敬が厚かつた江の島神社も同神で姫宮の祭神は江の島三女神を勧請したものであろうと言われています。国道二十号バイパス道路開設のため、その敷地として一部削られている。祭典当日は昔から草相撲が盛んに行われ、現在も子供相撲が続 けられ伝統あるふるさと祭りとして人々の和をひろげ大盛況であります。 -

 

ー参考図書・甲斐国志・韮崎市誌ー

姫神神社

お社の脇に古い石でできているけれどもモダンな感じがするオブジェがあった。

ひょっとしてこれは覗くのかしら…

おお、やっぱり!富士山を遥拝する装置なのだ。鏡石というそうだ。

帰る頃になってようやく富士山が見えてきた。

韮崎駅から

今回のハイキングは桜が満開の時期に歩くことができてラッキーでした。

12.2Km

高尾山で春の妖精に会う 

もう三月も終わりだし、高尾山のスプリングエフェメラル(春の妖精)たちは姿を消したかな…と思いながらも、出かけた。

高尾駅ホームで乗り換え電車を待っていると、眼下に見えるお寺の境内に桜が咲き始めていた。ソメイヨシノではないと思うけれど…

大光寺

今日は、人通りが少ない6号路を歩くことにした。

かわいい花は撮れないかもしれないから、これでも撮っておくか…とパチリ。シダの若芽です。

6号路は川沿いなので湿気が多いらしく、ユリワサビの花が咲いていた。

 

しばらく歩くと、おお、いました妖精さん

ニリンソウ

花が少し紫がかっているので、違う花(アズマイチゲとかキクザキイチゲ)かな?と思ったが、葉の形からしてやはりニリンソウだろう

きゃぁ、君たちはネコノメちゃんではありませんか!会えるなんて思ってなかったよ

ハナネコノメ

ヨゴレちゃんもいました。不名誉な名前だけど、スポットライトが当たっているように見えてよく目立つ。

ヨゴレネコノメ

 

スミレの仲間たち

ヤマルリソウ

これはサンシュユだと思ったが、通りかかった方がダンコウバイだと言っていた。

サンシュユはミズキ科、ダンコウバイはクスノキ科でほんのりいい香りがするのだそうだ。

頂上近くでなんと、春蘭を見ることもできた。


そして富士山! もう最高だ~


山頂は午前10時でもけっこうな賑わいだ。早々に退散しよう。帰り道は稲荷山コースにした。
こちらは花はほとんど咲いていない。下りは苦手なので足元ばかり見ていて咲いていても見逃したのかもしれないが…

いやいや、見つけましたよ、カンアオイ

葉っぱの上のほうに花があるよ…

「この紋所が目に入らぬか!」のアオイの葉がなければ絶対に見つけられなかった。

 

6号路を登り始めたときにはウグイスの声がずいぶん聞こえた。そのウグイスとどんな関係があるのか知らないが、かわいらしいピンク色の花ウグイスカグラも見つけた。

ウグイスカグラ

というわけで、ちょっと自慢したくなるような春のハイキングだった。

7.6Km

 

 

春うらら、いしにえの青梅を感じて 2024/03/17

昨年三月にも青梅に行った。その時は青梅駅より西側のコースだったが、今回は東側のようだ。

 

駅前から続く街並みには昭和レトロな雰囲気が残る。…と思ったら、看板にそう書いてあった。

そんな街を抜けて最初に訪れたのは住吉神社

住吉神社

青梅市指定史跡 『住吉神社

応安二年(一三六九)延命寺を開山した季竜が、 創建と同時に季竜の故郷である摂津国住吉明神をこの地に祀ったのが始まりと伝えられる。

旧青梅村の総鎮守であり、祭神は上筒男命、中筒男命底筒男命神功皇后である。例祭は四月二十八日(江戸時代は三月二十七、二十八日)、ま た、五月二、三日には十二台の山車巡行が行われ ている。

変形春日造(背面入母屋造)の本殿は、正德六年(一七一六)に建立され、棟札には泉州(大阪府南部)出身の大工名等も記載されており、上方建築の影響がみられる。また、拝殿・幣殿の再建は、文政七年から天保六年頃と推定され、江戸時代に立てられた本殿・幣殿・拝殿が一体として残り、たいへん貴重である。

さらに境内地には、稲荷神社、八坂神社、大鳥神社をはじめ櫛笥大納言隆望卿女歌碑、小林天淵筆塚碑等があり、青梅宿の町人文化の高さを今も伝えている。 

昭和二十八年十一月三日 指定

青梅市教育委員会

拝殿の天井には画家小林天淵の筆になる雲竜図があるとのことだ。覗いてみたが、見えなかった。

 

次に訪れたのは延命寺だ。

延命寺

臨済宗建長寺派の寺院。応安2年(1369)創建で、山号は住吉山。開山した李竜元筍禅師の郷里である大阪府堺市住吉明神を鎮守として勧進したことが山号の由来となった。創建以来火災に遭うことがなかったため、創建当時の面影が今なお残っている。安産子育ての「呑龍さま」として親しまれている。青梅七福神めぐりの大黒天。

境内には大きな木蓮の木があった。

延命寺入口の五重塔

この五重の塔は、青梅市本町小野其治氏(41)が、昭和七年 (一九三二)七月に突然の病で亡くなった愛息(11)を悼み、 自らの手により製作、建立されたものです。

幼子を亡くした余りの悲しさで、仕事の傍ら夜毎の墓参を続ける姿に心痛めた住持より「永劫の供養」を薦められ、五重の塔の建立を思い立ちました。

そして、浅草の浅草寺に度々足を運び、写実をくり返し設計図を完成させました。

その後、のちに棟梁となる青梅市千ヶ瀬町工匠・志村福重氏(20)と共に製作し、木組み工法で組み上げ、昭和九年 (一九三四)八月に建立し、奉納されました。

台下の納骨堂の礎には、三百余字の一字一石経を自ら浄書して埋め、また塔内には当寺伝来の厄除観音菩薩が奉安されています。

二〇二〇年五月

住吉山延命寺

親族一同

昭和七年と言えば、私の父の生まれ年だ。ということは、この塔を作った小野其治氏は私のおじいさんと同じくらいの年代を生きた方だったと思う。私のおじいさんも、最初の子供に「雪子」と名をつけたところ雪のようにはかなく死んでしまい、それ以降は自分で名前を付けるのが怖くなって村のお坊さんに名づけを頼んだと聞いている。

いつの時代も子を亡くした親の心情に触れると胸にこみあげるものがある。

 

次にすぐ近くの宗建寺に行った。

宗建寺

臨済宗建長寺派の寺院。室町時代後半に浄土宗の寺院として創建され、のちに臨済宗建長寺派となったと伝わる。毘沙門天を本尊としていることから、青梅七福神めぐりの毘沙門天になっている。日輪を模した本堂の天井が、珍しい形の庚申塔、義賊として有名な裏宿七兵衛の墓など見どころが多くある。

宗建寺

裏宿七兵衛は知らなかったが、足が速い盗賊だったそうで、今でもアスリートの人たちがお参りしたりするそうだ。それよりも、私は干刈あがたのお墓というのが気になった。

作家 干刈あがたの墓

新聞小説の『黄色い髪』をはじめ、野間文芸新人賞の『しずかにわたすこがねのゆびわ』で知られる女性作家、干刈あがた(ひかりあがた)は、戦時下の昭和十八年一月、まだ西多摩郡と呼ばれた青梅町勝沼二十五番地に生れ、小学四年生の十二月杉並区の新居に移るまでの多感な九年あまりを当地で過ごした。

都立富士高等学校から早稲田大学第一政経学部新聞学科に進学、経済的な理由で退学。結婚して二児を育てながら、子供時代を過ごした青梅を描いた自作の短編と詩、採集した沖永良部の島唄をまとめた「ふりむんコレクション 島唄」を本名の浅井和枝で昭和五十五年に自費出版した。

昭和五十七年『樹下の家族』(海燕新人文学賞)以来十年間に、芸術選奨新人賞を受賞した『ゆっくり東京女子マラソ ン』など、家族のゆらぎ、女性の自立、人と人との新しい絆、 教育や老いの問題について書き続け、女として母として等身大の発言者として注目された。晩年の小説『野菊とバイエル』には、新しく市に生まれ変わった青梅、映画館が二軒もあり織物の盛んだった町の生活が生き生きと描かれている。 平成四年コスモスの咲く九月、四十九歳の若さで永眠。墓は宗建寺第二墓地内にある実家柳家(やなぎけ)の墓所内に、実兄により建立された。

平成二十三年九月六日

干刈あがたコスモス会

干刈あがた、今度読んでみよう。

 

乗願寺

市指定史跡 勝沼山乗願寺

神奈川県相模原市当麻・無量光寺(時宗) の末寺で本尊は阿弥陀如来である。正安二 年( 一三〇〇)三田下総守長綱が他阿真教上人を迎え、 開山したと伝えられる。また一 説には、鎌倉将軍家久明親王の帰依した鎌倉光明寺の二世・白旗寂恵の弟子箕田定恵 の開基ともいう。

天正十八年(一五九〇)兵火のため炎上し記録類が失われた。慶長年間(一五九六~一六一四)に至り、二十四世・覚阿性海が再建、慶安二年(一六四九)には阿弥陀堂領として三石の朱印地が与えられている。

寺宝に、三田綱秀が用いたと伝えられる兜の前立てと旗指物(軍旗)があり、市指定有形文化財に指定されている。

また、寺域には青梅の書家、小峯峰真の墓がある。

昭和二十八年十一月三日 指定

青梅市教育委員会

お寺はどこも墓参や法事で集まった人々が引きも切らず、線香の匂いが漂っている。

青梅の人々は信心深いなぁ…と感心したが、気がつけばこの日は彼岸の入りだ。暖かさに誘われて早めにお参りを済ませたのかもしれない。

 

次に訪れた天寧寺は大きなお寺だった。

天寧寺惣門

東京都指定史跡
天寧寺境域
所在地 青梅市根ヶ布一ー四五四
大正一四年五月標識指定
昭和三五年四月一日 史跡指定及び名称変更

天寧寺は曹洞宗名刹で、室町時代文亀年間(一五〇一~〇四)に当地の領主三田弾正政定が再興したものです。

 江戸時代には末寺三七を数える大寺院でしたが、たびたび火災にあい、堂宇のうち、本堂、禅堂、中雀門、通用門、書院などは江戸時代中期、また、総門、山門、鐘楼、庫裡などは江戸末期の建立です。 

丘陵を背景にした七堂伽藍の配置は旧時の状態をよく保っており、都内の曹洞宗寺院として伽藍がよく残っています。

総門は四脚門の冠門。山門は三間一戶、二階二重門、入母屋造、茅葺型銅版葺。中雀門は一間一戶、向唐門、柿葺型銅版葺。本堂‧書院及び禅堂は単層寄棟造り、茅葺型銅版葺。庫裡は単層、 入母屋妻入造、茅葺型銅版葺です。茅葺であっ たものを昭和三五年(一九六〇)よりの解体修理により銅版葺に変えたものです。

平成二二年三月 建設
東京都教育委員会

山門

中雀門
僧堂・法堂

 

天寧寺の裏手から30分ほど歩いて勝沼城跡に着くはずだったが、道を間違えたのかそれらしい場所に行きつかない。説明書きはあったのだけれど…

東京都指定史跡
勝沼城跡

所在地 青梅市東青梅六丁目五八番外
指定大正十四年五月標識
昭和二十七年四月一日史蹟 
昭和三〇年三月二十八日旧跡 
平成五年三月二十二日史跡

勝沼城は、霞川上流部を南に臨む丘陵に位置し、 主郭標高二一五メートルを測る平山城です。三つの曲輪で構成されています。曲輪は東西に並び、中央が主郭であると考えられます。曲輪周囲には、空堀や土塁など防御施設の遺構が良好に保存されていま す。
築城年代や築城者は不明ですが、平将門の末裔と称し、多摩川上流の三田谷を勢力としていた三田氏の居城でした。永禄四年(一五六一)に上杉謙信が関東を席巻すると、管領上杉氏の勢力下にあった三田氏らは上杉謙信の旗下に入ります。その後、上杉謙信が越後(現在の新潟県)へ帰国すると、敵方の北条氏による反撃が開始され、永禄六年(一五六三)頃には滝山城北条氏照により三田氏は滅ぼされました。
『新編武蔵風土記稿』によると、三田氏滅亡後の 勝沼城には北条氏照の家臣、師岡山城守将景が入城したとされており、師岡城とも呼ばれています。 現存する遺構は、その構造から北条氏勢力によって修築されたものと考えられます。 昭和五〇年には東京都の歴史的環境保全地域にも指定され、青梅市が管理しています。

令和四年三月建設

東京都教育委員会

土塁とか空堀とか、わからないし…

急な傾斜のお墓の中を下り降りて見上げると、う~ん、やっぱりあそこがそうだったのかな?

勝沼城跡?

謎の勝沼城跡をあとにして、さらに30分ほど歩くと春日神社に着いた。

春日神

東京都指定有形文化財(建造物)
春日神社本殿 一棟 付 本殿棟札三枚
所在地 青梅市野上一丁目三八番地
指定 平成二年三月二二日

慶安元年(一六四八)多摩郡下師岡村の名主吉野太郎右衛門と同郡吹上村の名主塩野喜右衛門の発願により、 大工吉沢藤兵衛が建立したものである。
寬廷二年(一七四九)には屋根修理、文化二年(一八〇五)には本殿の向拝・縁まわりなどの修理が行われている。
形式および構造は一間社流れ造り、瓦棒銅板葺きで、 身舎の規模は桁行柱真々二・三六三メートル、梁行柱真々ニ・一一五メートルとなっている。

当本殿は、多摩地域における数少ない江戸初期の遺構で、春日神社が立地していた古村地帯における中世からの歴史的な技術や美意識を伝える貴重な神社建築である。 また、一間社としては規模も大きく、建築的な質の高さをうかがうことができる。

令和元年八月建設

東京都教育委員会

「かすがさま」の例祭日に奉納される獅子舞は市の無形民俗文化財となっているそうだ。

さぁ、これでおもな見どころは終わり!ゴールの河辺駅を目指す。

河辺駅前にはビルの中に温泉がある。そこで一休み、お風呂に入ってビールを飲んでプハー

 

暖かな春の日、よい散歩でありました。

9.7Km

小江戸さわら雛めぐりハイキング 2024/03/03


3月と言えばひな祭り

佐原ではお雛様に扮した人々が小舟に乗って川遊びをするという。開催予定日だった2日は寒かったので、翌日のホントのひな祭りの日に出かけた。東京駅から高速バスでひとっ飛びだ。

佐原駅

駅前には郷土の偉人・伊能忠敬

まずは北へ向かい、利根川を見に行く。

道の駅・川の駅「水の郷さわら」から

川とは思えないような広々とした眺めだ。

ここから小野川に沿って町の中心部へと歩く。小さなボートで川面から街を案内してくれるようだ。昨日のお雛様もここで川遊びを楽しんだのでしょう。

さわら雛舟春祭り|イベント紹介|佐原おかみさん会

小野川沿いの遊歩道

佐原には江戸時代から利根川水運により繁栄した商家の町並みが残っていて、伝統的建造物群保存地区に指定し、建物の外観の保存に努めているそうだ。

そうした財を成した商家には立派なお雛様もあるようで、古い建物の奥の薄明りの中にいらっしゃる殿や姫を訪ねて歩くのも乙なものだった。

 

正上醤油店

 正上は寛政12年(1800)の創業で、古くは食用油を商っていたが、天保3年(1832)からは醤油業を営んでいる。香取街道にほど近い、船運の重要な流通路であった小野川に面した町家で、店舗背後の敷地内に多くの建物が建ち並んだ屋敷構えである。店のすぐ前の小野川の川岸には荷揚場であった「だし」も現存している。正上醤油店の店舗と土蔵は県指定有形文化財(建造物)に指定されているほか、重要伝統的建造物群保存地区内の建造物でもある。

 店舗は江戸時代後期の天保3年(1832)に建築されたと伝えられる。1階は内側に揚げ戸(鎧戸)を建て込み、外側の土庇を格子戸と壁で囲う構えとし、2階正面に繊細な格子窓を組み、軒を大きく出した「せがい」とするなど、格式のある形式となっている。

 土蔵は明治時代前期の建築で、寄棟造の屋根の妻と、1・2階の観音開きの窓を表通りに向けた外観は、建築当時の典型的な外観構成となっている。

 これらは、特に外観の保存状態が良く、意匠も優れていることから、佐原河岸の景観を構成する重要な要素ということができる。 千葉県教育委員会

 

旧油忽商店

旧油忽商店 千葉県指定有形文化財

旧店舗: 寄棟妻入り 明治33年(1900)築
土蔵: 切妻平入り 寛政10年(1798)築
寛政6年(1794)創業

江戸時代、酒や奈良漬けの製造販売を行った 旧店舗は明治25年(1892) 大火後の建築、 佐原には珍しい寄棟総2階造りて廊下を挟んで 大正期の増築部、奥に枯山水の庭を配する。表に は格子戸を嵌め、半間内側に蔀戸を下ろし店舗と する商家の形態をよく残す。土蔵梁に寛政10年の 銘あり佐原最古の土蔵とされる。二重の引き戸は、 観音扉が普及する以前の形式である。

 

福新呉服店

福新呉服店  千葉県指定有形文化財

店舗: 切妻平入り 明治28年 (1895)築
土蔵: 切妻平入り 明治初年 築
文化元年(1804)創業

 明治25年の大火後、前・側面を厚塗り壁の 周囲に、さらに塀を廻らして防火構造とする。昭和初期に洋風を意識して下屋をテラスにし 高欄を配して透かし看板をつけ、また、 窓には小割のガラス戸を嵌め、周囲を銅板で 飾り立てた。道路に面した2階建ての店舗と 奥の平屋・中庭・土蔵と連なる建物配置は、 佐原で見られた商家の屋敷です。

福新呉服店のお雛様

このお内裏様は佐原一のイケメンだそうだ。姫も美しい。

 

正文堂書店

正文堂書店  千葉県指定有形文化財

店舗: 切妻平入り 店舗、明治13年(1880)築
享保年間(1716~1736)から本の出版・販売

享保年間から「朝野正文堂」「伊能正文堂」「前田正文堂」と続いた書店で、和本を陳列する戸棚も備わっ ていた。本格的な「店蔵造り」で意匠・技術ともに秀でている。前面2階の観音開き戸は、内に横引き土戸、さらに板戸と3重構成。屋根瓦は「小江戸瓦」 と称する、明治時代の一時期東京亀戸で焼かれた小振りの瓦で葺かれ、本瓦葺を意識した粋を感じさせる。

 

千葉商船ビル

これは昭和初期の洋館をモデルにして作られた新しい建物だそうだ。街によく溶け込んでいる。

千葉商船ビル | 岡建工事株式会社

 

中村屋乾物店

 中村屋乾物店は、小野川右岸にあって、香取街道に面した町家である。中村屋は江戸時代の創業以来の乾物商で、中村屋の屋号は多古町中村の出身であることにちなんだものという。店舗と文庫蔵は、県指定有形文化財(建造物)に指定されているほか、重要伝統的建造物群保存地区内の建物でもある。

 店舗は、明治25年(1892)に佐原を襲った大火直後に建築されたもので、当時最高の技術を駆使した防火構造であり、壁の厚さが1尺5寸(約45cm)にもなる。間口は3間で、1階は畳敷と通り抜け土間のある店構え、2階は屋根裏を表した倉庫になっている。1階の正面は揚戸と土間の建て込み、2階は観音開きの土戸としている。

 文庫蔵は店舗から1間程離れて建つ3階建ての建物で、1階と2階は明治18年(1885)の建築、3階は店舗とともに明治25年(1892)の大火の前の形で再建されたもので、2室続きの座敷になっている。

 限られた敷地の中に蔵造りの建物が建つため、居室に文庫蔵の3階をあてるなど居住空間の配慮に工夫が見られるのが特色である。 千葉県教育委員会

奥に見える暖簾に染め抜かれた〇に平の字、これが本家だそうで、分家になると似ているけれどちょっと違う意匠になっていると、案内人の方の説明があった。

分家のマーク

植田屋荒物店

植田屋荒物店

店舗: 切妻平入り 明治26年(1893)築 (奥)寄棟2階建て 前建物後
土蔵: 切妻妻入り 明治初年 築
創業:宝暦9年(1759)

初代辻仁兵衛は、近江(蒲生)の出で現在8代目となる。 屋号「植田屋」かつて荒物と畳表の卸業が主で、「大分県から 産地直輸入畳表」と書かれた奇妙な看板を見ることができる。
明治25年大火後に平屋の店舗を、その後奥に2階建てを増築して店舗兼住宅とした。土蔵は、大火前の建物で一般公開されており、又首組構造の大きな棟木を見ることができる。 この棟木は6間の長尺で搬入の際大変であったと聞く。

棟木は松の木だそうだ。近江商人の初代から代々商売に励みこれほどの倉を建てるほど財を成す。。黒光りした棟木にご先祖様の姿が映っているようだ。

 

三菱銀行佐原支店旧本館

の建物は、大正3年(1914)に川崎銀行佐原支店として建設されたものである。当時の建築設計図には、清水満之助本店(現在の清水建設)技術部の設計になることが記されている。昭和18年(1943)に川崎銀行は三菱銀行と合併し、三菱銀行佐原支店となったが、平成元年(1989)に銀行の新店舗が完成したことに伴い、この旧店舗は香取市に寄贈されて今日に至る。

物は煉瓦造2階建て、木骨銅板葺屋根の明治時代の洋風レンガ建築の流れをくんでいる。内部は吹き抜けで、2階周囲には回廊がある。正面右隅に造られた入口はルネサンス風の外観で、この区画の頂上にはドームが付けられており、建物全体の景観にアクセントが与えられている。全体のデザインは、ルネサンス様式で、レンガと花崗岩で構成される特徴的な外観の建物である。  千葉県教育委員会

 

伝統的建造物群保存地区から少し離れた八坂神社では骨董市が立っていた。

(こういうところは午前中に来なければいいものはないそうだ…)

敷地内に水郷佐原山車会館があった。見てくればよかった…

八坂神社

水郷佐原山車会館
平成28年にユネスコ無形文化遺産に登録された関東三大山車祭「佐原の大祭」で勇壮に曳き廻される山車が2台展示されています。上部に4メートルの大人形、周囲に重工かつ繊細な彫刻が飾り付けられた総欅づくりの山車は訪れた方々に佐原の粋を見せることができるでしょう。

 

そこから今度は南に下り、観福寺を訪れた。

観福寺本堂

観福寺は川崎大師・西新井大師と並ぶ、関東三大厄除大師の一つだそうだ。そして伊能家の墓所がある。

伊能忠敬

一七四五年、上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡九十九里町)に生れ、十七歳のとき佐原村の伊能家 の婚嗣子となった。以後三十余年の間、名門伊能家 の主人として、また、村の名主、村方後見などの役についてはたらいた。 隠居後、五十歳で江戸へ出て、幕府天文方高橋至時から本格的に西洋流の暦学を学び、幕命によって一八〇〇年から十七年間、全国の海岸線を実測して精密な地図をつくった。これによって、日本の国土の正確な形と地球上の位置がはじめて明らかにされた。

一八一八年五月十七日(文政元年四月十三日)江戸八丁堀亀島町で死去。七十三歳。遺言により 遺体は浅草源空寺の高橋至時の墓側に葬られた。 佐原観福寺の伊能家の墓所には遺髪と爪が埋められた。

佐原の伝統・文化を大切にする会

 

北上して再び伝統的建造物群保存地区のほうに戻る。

与倉屋大土蔵

のっぺりとした壁のようだが中は大変広く、コンサートなども行われるらしい。

よい動画を見つけた。

youtu.be

佐原には造り酒屋も多い。本当に豊かな町だったのだなと思う。

馬場本店



東薫酒造のお雛様

楽し気にいろいろな遊びをするお雛様も珍しい。

お嫁にいらした 姉様によく似た官女の 白い顔

 

清宮

清宮

母屋: 寄棟平入り 明和2年(1765)改築
土蔵(右): 切妻平入り 明治2年(1869) 築
土蔵(左の2棟): 切妻平入り 明治期 築
創業:享保15年(1730)

穀物商·醬油醸造・質商等を営んでいた。母屋は、江戸時代末から明治初期の漢学者であり、地理・歴史・儒学にも長じた清宮秀堅の旧宅。著書には、「下総国旧事考」 「三郡小誌」「新撰 」「成田参詣記」「北総詩誌」など多数。

大きな屋敷に母屋・門・黒塀・庭・土蔵が配され、元名主としての趣が感じられる。母屋は、佐原に残る数少ない江戸時代の住宅建築で、間取りや部材にその特色を見ることができる。右側の土蔵屋根瓦は、「小江戸蔵」と称する特殊な瓦で、気品を感じる。

母屋には今も清宮さんが住んでおられるそうだが、そのほかの建物は古民家風のおしゃれなホテルになっている。

 

再び、伝統的建造物群保存地区の中心に戻ってきた。この橋はTVのCMで見たことがある気がする。

ジャージャー橋

あ、これだこれだ(笑)

youtu.be

 伊能忠敬旧宅前にある、小野川にかかる橋。もとは江戸時代の前期につくられた佐原村用水を、小野川の東岸から対岸の水田に送るための大樋でした。300年近く使われ、戦前にコンクリートの橋になってからも橋の下側につけられた大樋を流れる水が、小野川にあふれ落ちて「ジャージャー」と音を立てるので、「ジャージャー橋」の通称で親しまれていました。

 今の橋は観光用につくられたもので、30分ごとに落水させています。この樋橋の落水は「残したい日本の音風景100選」に選ばれています。

 

さぁ、最後はやはり伊能忠敬で締めなくては。

伊能忠敬関係資料」2345点は平成22年6月29日国宝に指定されました。

伊能忠敬記念館で見た大きな日本地図、それが現代の人工衛星を使ってみた日本とほとんど同じなのは驚きだ。

家業も、自分が婿養子としてついでから隠居するまでに3倍の規模にしたそうだ。数学のできる人だったことは間違いない!

天性の好奇心、バックボーンとなる財力、健康長寿などがあって、大きな功績を残したことは、牧野富太郎博士と通じるものがあるなぁ(まだ「らんまん」の余韻が…)

 

お気に入りのポッドキャスト「そんない理科の時間B」でも伊能忠敬を取り上げた回があるので、どんなにすごい人かはそちらでどうぞ。

sonnai.com

というわけで、見どころいっぱいの佐原だった。

ちょうど10Km

真鶴名産小松石に刻まれた歴史とアートをめぐる 2024/02/11

真鶴は石のまちだそうだ。

本小松石という石が採れ、鎌倉時代には鎌倉のまちの建設のために、江戸時代も江戸城の築城や品川台場の築造のために、真鶴港から船で運び出されたという。

そんな石のまちにある古くからの石碑や、最近の彫刻祭の作品を訪ねて回るのが今回のハイキングのテーマだ。(けれど、石は地味。。。見逃してしまったのもいくつもある…)

まずは、お寺さんから

瀧門寺

瀧門寺入口の五層塔

塔身は一つの石からつくり上げられたもので、江戸初期(一六五四建立)の彫刻技術水準の高さを示しています。

 

そこから少し歩いて海辺へ

源頼朝船出の浜
もらった絵葉書と頼朝の船出を見送った猫(ウソ)

西のほうに視界が開けると真鶴半島が見えた。あの先まで歩くのだ!

真鶴のイルカ

石の道

振り返ると見えるのが小松山(たぶん) かつてこの道を通り、港まで人力で石を運んだ。

貴船神社

貴船神社

御祭神 大国主神 事代主神 少彦名神

創建は平安時代宇多天皇の寛平元年(八八九)六月十五日と伝える。古来真鶴の鎮守 で、漁業や海上安全の守り神ともされ、人々の篤い信仰を受けて貴宮大明神と呼ばれた。 明治初年貴船神社と改称し、同六年郷社に列せられた。大正十二年の関東大震災から復興するに当り、境内を拡張して昭和十年現在地に社殿を移転、同三十八年本格的な造営が完 成した。拝殿内部の彫刻一切は、幕末の巨匠江奈の半兵衛の名作である。

大正三年二月、華項宮博忠王殿下、久通宮邦久王殿下の御参拝があった。

例祭は毎年七月二十七.二十八日・神輿の海上渡御は日本三船祭りの一つとして名高くこれを含む「貴船神社の船祭り」は、昭和三十三年に神奈川県無形文化財、同五十一年に 同県無形民俗文化財、平成八年には国の重要無形民俗文化財に指定されている。

長い石段は煩悩の数と同じ百八段あるといわれる。登りながら数えてみたところもっとあった。たぶん登る人の煩悩の多さによって変わるのだろう。。

 

うに清

昔の上司が「真鶴へ行ったらうに清がうまいよ、ぜひ行きなさい」と言っていたことを覚えている。とうとう来ましたよ~ あれから何十年も経っているのに予約がないと入れないご繁盛ぶり、美味しいのでしょうねぇ。でも一人で船盛は食べられないので、泣く泣くパス。

振り返ると真鶴港の向こうには雪化粧した連なる山々が見えた。方角からすると丹沢だろうか。

さらに山道を登っていくと、いよいよ真鶴のシンボル「三ツ石」が眼下に見えてきた。

三ツ石

わが立てる 真鶴崎が二つにす 相模の海と伊豆の白波  与謝野晶子

三ツ石は日本でも珍しいトンボロ現象(普段は海によって隔てられている陸地と島が、干潮時に干上がった海底で繋がる現象のこと)がみられる場所だそうだ。三ツ石の磯場は足元が悪く、潮が満ちてくると戻れなくなるので渡るのはお勧めしません、と書いてあった。実際に降りてみると、丸い石がゴロゴロしていて海藻も生え、渡る以前に足をくじきそうだった。

 

そうそう、石の彫刻も紹介しておかなくては…

石の作品たち

真鶴町石の彫刻祭の作品/真鶴町

中でも印象に残ったのはこちら

石の時間 川口龍夫作

石の側面にひそかに北斗七星の形に穴をあけ、古代蓮の種を埋め込んであるそうだ。(気が付かなかった…)

作者が予想する10万年後に花開くだろうか。何回転生したらその時に立ち会えるかわからないが、見てみたいものだ。

 

10万年後の世界に鳥はいるだろうか。春めいてきた光に誘われたのか、写真に収まってくれた鳥たち

メジロジョウビタキ
クロサギ?・ウ?

 

最後に訪れたのはお林展望公園だ。パークゴルフを楽しむ人々の間を抜けて先端まで行くと初島が風景の中心に見えた。

お林展望公園

けっこうアップダウンのあるコースだったが、膝が痛くなることはなかった。九月から続けているフィットネスの成果だと嬉しいのだけれど。

 

10.4Km

上野東照宮ぼたん苑

久しぶりに上野へ行った。

科学博物館で「和食」展を見たあと、暖かさに誘われて東照宮ぼたん苑に足を運んだ。

冬牡丹がまぁ、きれい。雪もないし、日差しもなくて面白くない写真かもしれないがたくさん撮ってきた。ぼたん苑のホームページによると、40品種ということだが、その倍はあったと思う。写真を整理して名前と合わせて…というのが大変な作業だったので、本当はここに全部載せたい!

でも花の写真ばかりだらだらといつまでも続くページはひんしゅくを買いそうなので、苑のそこここに掲げられていた俳句を、この句のイメージならこの花では?と勝手に紐づけてみようと思う。

毛筆書きの俳句を正しく写せているかどうかはわかりませんよ。

 

【藁囲ひはみ出してゐる冬牡丹】

聖代

 

【寒牡丹絹のふくらむごとくなり】

五大州

 

【寒牡丹開きて言葉ある如し】

花王

 

【美しく老ゆるは難し白牡丹】

銀河

 

【寒牡丹施無畏のごとくひらき初む】

月桂冠

 

【ひらききり冬の捨て身の白牡丹】

木蓮

 

【ためらわずほぐれしは濃き寒牡丹】

皇嘉門

 

【背き合ひ相寄り籠る寒牡丹】

阿蘇の司

 

【静かさのかなめに白き寒牡丹】

白雁

 

【火の色を恋いて火色の冬牡丹】

島錦

 

【句に詠めば白さの失せむ寒牡丹】

御国の旗

 

【冬ぼたんひとときは世のほかに居り】

島長寿楽

 

【寒牡丹胎内佛のおはすごと】

百花殿

 

【純白は誇りの極み寒牡丹】

富士の峰

 

【菰内に葉を溢れしめ冬牡丹】

黄冠

 

【白妙の珠の緒を解き寒牡丹】

暁の雪

 

楊貴妃は知らねどかくや寒牡丹】

八千代椿

 

【夢幾夜重ねてひらき寒牡丹】

明日香

 

【開かむと気息ととのふ冬ぼたん】

娘花祭

 

【渡来してからくれなゐの寒牡丹】

シャントール

 

【くれなゐの二花抱き合ふる寒牡丹】

向陽

 

【咲くことを恐れぬ白さ寒牡丹】

連鶴

 

【八方に開き崩れず寒牡丹】

夜鳥

 

【対の如く競える如く寒牡丹】

村松の雪

 

【冬牡丹咲きし証しの紅散らす】

今猩々

 

【夢の又夢の色なり冬牡丹】

島の藤

 

【長居して牡丹に齢奪はるる】