多摩森林科学園

昨日は暑かったけれど、今日はそれほどでもないと聞いて、高尾に行ってみることにした。

懐かしい高尾駅。吹く風も心地よく、絶好のハイキング日和。行く先に陣馬高原下と書いてあるバスなどを見ると思わず乗りたくなってしまう。

でも衰えた足腰に無理は禁物。今日は駅から10分の多摩森林科学園にしておきましょう。ここにはたくさんの桜があるからよいお花見ができるはず。

晴れた空、遠くには都会の景色
山笑う… 

着物の下にスカート、足元はスニーカーという不思議ないでたちの人もいたが、そこを写さなければ桜に和服はよく似合うからいいでしょう。

 

園内は今は八重桜が盛りで、大きなカメラでたくさん撮ったので、ホントは全部載せたい。でも厳選して。

それでもカタログ状態になってしまうけどお許しを…

松前更紗
御室有明

御祓

関山(カンザン)

ホタテ  (おかしな名前…)
御衣黄
松月
普賢象

鬱金(ウコン)

花月の白妙
嵐山

薄墨

白妙

 

桜だけでなく春の草花もたくさん咲いていた。

タチツボスミレとスミレ (たぶん)
ヤマルリソウとフデリンドウ
イチリンソウとチゴユリ
ホウチャクソウとバイモ

ハナイカダ

ゆっくりゆっくり歩いて、森林浴とお花見を楽しんだ。よい一日だった。

 

おまけ

山で鹿に出会ったら… 

「あっちにいけ!」って言うんだって(笑)

 

 

「歴史薫る大磯ハイキング~俳諧と明治の面影を訪ねて~」 2026.03.15

スタートは大磯駅。東に向かって歩き出す。

旧東海道松並木

大磯八景碑 化粧坂の夜雨

大磯八景碑 「化粧坂の夜雨」

雨の夜は静けかりけり化粧坂松の雫の音はかりして

大磯八景は、明治40年頃、大磯町第5代町長宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書を出版したのが始まりである。その後昭和12年に大磯小学校第2代校長朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立した。現在は、「小淘綾の晴嵐」を、 除く「高麗寺の晩鐘」、「花水橋の夕照」、「唐ケ原の落雁」、「化粧坂の夜雨」、「鴫立沢の秋月」、「照ヶ崎の帰帆」、「富士山の暮雪」の7基が残っている

高來神社

高来(たかく)神社

(高麗寺) 略緣起

古代: 大磯の東に聳える高麗山は昔より神宿る山として住民から信仰されて来ました。 創始神功皇后が三韓を討った後に、高麗山の上に神皇産霊神・高麗大神和光(高麗権現)を遷し祀り天下の平和をお祈りされました。後に瓊瓊杵尊・応神天皇・神功皇后が併せ祀られました。この高麗権現は箱根神社並び伊豆山神社に遷祀されております。

若光渡来 :天智七年(六六八)高句麗国が滅亡するや高句麗の王族若光は大磯の高麗に渡来して大陸文化を伝えました。霊亀二年(七一六)大磯を初め各地に渡来した高句麗人が若光を郡長として武蔵国高麗郡に移され開発を命ぜられました。

高麗寺の創建: 養老元年(七一七)僧行基がこの地を尋ね大磯の照ヶ崎の海中よりお上りになった千手観音菩薩を拝し本地佛と定められ高麗寺を創建されました。かくして神仏習合の聖地となり鶏足山高麗寺を別当寺とし長く信仰されて来ました。

中世: 鎌倉時代は幕府の厚い信仰を受け相模の大寺社に列せられ境内に二十四僧坊が置かれましたが、室町時代には高麗山は要害の地として重なる戦いの被害を受け白山社・毘沙門三重塔など多くの伽藍、寺宝が焼失されました。

江戸期 :天正十九年(一五九一)徳川幕府から御朱印地として寺領百石と山林を与えられ、寛永十一年(一六三四)東照権現(徳川家康)が勧請されました。そして天海僧上より寺十三条掟書を授かりました。参勤交代の殿様もお駕籠から降りて高麗寺の大鳥居の前で深々とお辞儀をして毛槍を下げて寺領内を静かに通り、領民の土下座はなかったと伝えられます。

近代: 明治の世となり神仏分離の政策により高麗寺は廃寺となり、明治三十年に高来神社と改称されました。現在旧観音本堂(下社)に遷座されています。千手観音菩薩を始めとする寺物は現慶覚院に安置されました。高来神社は古来より高麗、大磯の鎮守神として地域住民の平和と安全を御守護されています。

 

秩父の高麗神社はお参りしたことがあるが、こちらにルーツがあったとは知らなかった。後ろの山はハイキングコースになっているようだった。

 

ここからコースは来た道を西へと戻っていく。

おや、ここは河野太郎さんの地元か。。凛々しいお顔で

 

わあ、海だ!海が見えるとテンションが上がるのはなぜなんだろう。

 

大磯は日本最初の海水浴場だそうだ。

濡れた砂浜を歩きながら潮風を楽しんだ。サーファーが何人かいたが、この日の波は荒かった。

 

 

海辺を離れて国道に戻るとすぐに「新島襄終焉の地」という碑があった。最後はここで療養していたという。

新島襄終焉の地

明治の教育者新島襄は、1843年(天保14年)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男として生まれた。その当時は、近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年) 函館から脱国して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、翌年京都に同志社英学校を設立した。その後宿願であった同志社大学設立を企図して東奔西走中病にかかり、1890年 (明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。

 

同じく国道沿いに鴫立庵というのがあった。

鴫立庵

1664年(寛文4年)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、1695年(元禄8年)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となった。現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれている。崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石「著盡湘南清絶地」と刻まれていることから、湘南発祥の地として注目を浴びている。

心なき身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行法師)

このコースの副題に「俳諧」という言葉は入っているのに、出会うのは「短歌」ばかりだなぁ…といぶかしく思っていたが、ここが俳諧の道場なのか!と納得。

再び国道に戻り西に向かう。

東海道の松並木

江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商お伊勢参りなどに広く利用されました。

松並木は、今から400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主に保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたものです。

この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産です。

 

そして、最後のポイント「明治記念大磯庭園」に着いた。

陸奥宗光と大隈重信がお出迎え

「明治記念大磯庭園」のパンフレットから

積層する歴史を今日に伝える佇まい(風致)

大磯の海や山等の豊かな景観が別荘地として好まれ、伊藤博文ら先人たちも、邸宅からのこゆるぎの浜や富士山の眺めを愛でていたと考えられます。

本邸園には、明治期から昭和初期に至る様々な時代に建てられた和風、和洋折衷、洋風の別荘建築があり、白砂青松の景観を活かした庭園、こゆるぎの浜辺や東海道(国道1号)の松並木等の歴史的景観と一体となって、積層する歴史を今日に伝える佇まい(風致)を遺しており、湘南の邸園文化を象徴する歴史的遺産となっています。

現在は陸奥宗光別邸と大隈重信別邸が見られる。今後伊藤博文別邸や西園寺公望別邸も今後整備して公開されるようだ。

陸奥宗光邸

大隈重信邸

今、庭園を散策すると海岸沿いを走る車の音も聞こえるが、当時聞こえたのは波の音とトンビの鳴き声ぐらいだったのかもしれない。

明治の偉人たちは、この地で傷ついた心身を癒しながら、お互いに着流しで行き来し主義主張を越えて交流していたというが、わかるような気がした。

 

春の日の気持ちの良いハイキングだった。暑くなるまでにあと2,3回駅からハイキングに行けるといいなぁ…

9.0Km 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ズーラシアから四季の森へ 緑と歴史の散歩道  ~2026.03.01

先週に引き続き暖かなハイキング日和の日曜日、横浜の郊外へ出かけた。

スタートは十日市場駅、そこから南に歩いていくと新治里山公園だ。この辺りは横浜最大の緑地の一つで、江戸時代から続く豪農、奥津家の屋敷がある。はなれではお雛様が展示されていた。

吊るし雛などは地元の主婦たちの手作りだそうだ。

河川の保全活動なども活発に行われているということで、次は杉沢堰に行った。

杉沢堰(横浜市認定歴史的建造物)

江戸時代からの灌漑農業の営みを伝える遺構として、2023年に横浜市認定歴史的建造物に認定されています。三保市民の森を源流とする梅田川の入域では江戸時代から盛んに稲作が行われてきました。杉沢堰は、この営みを支えた堰の一つです。

杉沢堰に祀られた不動明王「神明谷戸お滝様」

梅田川沿いをしばらく歩くとよこはま動物園ズーラシアに出た。

ベビーカーを中心とした家族連れが行きかう中、怪しいおばあさんも久しぶりに動物園を歩き回ってきた。

動物の写真を撮るのは難しいものだ。だいたい寝てるし… フェンスやガラス越しなのでピントもなかなか合わせられない。

まぁ、でも楽しかった!(サイは思いっきりおしっこしてるよ…)

 

道々撮った春の花も並べておこう

サンシュユ、ミツマタ、ウグイスカグラ、マンサク、セツブンソウ

歩き疲れてなんだかよくわからないうちにゴールの中山駅に着いた。

13.5Km よく歩きました。

歩いて学ぶ、船橋の歴史と都市型農業 ~2026.02.23

振り返れば前回の「駅からハイキング」は昨年のことだった!月日の流れの早いこと。

暖かな天皇誕生日には船橋へ出かけた。

最近、早咲きの色鮮やかな桜が増えたような気がする。これはなんという桜かしら…御蔵稲荷神社の隣の小さな公園に咲いていた。

その公園には船橋御殿跡の説明があり、この辺り一帯が御殿だったという。

船橋御殿跡(本町4丁目)

ここは海老川の西岸、船橋御殿があったところで、標高は約3mの砂州上です。御殿は江戸時代の初め、徳川家康の命により作られました。それ以前は戦国時代の船橋大神宮宮司である富氏の居館があったと伝えられ、地政学的には海と陸を制する重要地である海老川河口に位置しています。この頃、船橋・千葉・東金をほぼ一直線に結ぶ御成街道(東金街道)が幕府により作られました (1613年頃)。 御成街道は船橋御殿,千葉御茶屋御殿(千葉市)・東金御殿(東金市)を最も短距離で結ぶための道でした。三つの御殿は北総の要所となるところに作られ、将軍が鷹狩りや地方巡検時の宿泊・休憩用に使いました。また御殿は中世の城と同じように防御用の土塁や堀があり、軍事的な拠点の役目もありました。御殿には初代将軍家康, 二代目秀忠が宿泊した記録も残ります。貞享年中(1684~1688年)に取り壊されましたが、船橋御殿を描いた絵図が残っているので、面積が約57,000㎡もあり、今の東京ドームよりも広かったことがわかります。市指定史跡の東照宮がある場所は家康たちが利用した御殿の建物があったところで、富氏が家康を祀るために建立しました。

平成29年3月船橋市教育委員会

 

次に船橋大神宮に向かった。

徳川家康との由来も深い、船橋市民に愛されている神社です。正式名を「意富比神社(おおひじんじゃ)といい、1900年以上の歴史を持つ古社で、境内にある燈明台は木造建築で高さが12mほどあり、船橋のシンボルの一つとなっています。

え?燈明台?見落とした!ネットで画像を見ると、九段坂の燈台のようだ。今では、どうしてこんなところにと思うが、どちらもかつては海が近く見晴らしもよく、船を導いていたのだろう。

 

次に、飛ノ台史跡公園博物館に行った。

はるか昔、縄文時代の人が住んでいた場所にできた博物館。市内で初めて国史跡に指定された取掛西貝塚の出土品が展示されているほか、縄文時代早期の遺跡「飛ノ台貝塚」の史跡なども展示されています。博物館の隣には芝生の公園「史跡公園」があり、発掘されたその場所に発掘調査の様子をレプリカにして屋外展示しています。

館内にはたくさんの土器や剝ぎ取った貝塚が展示されていて、興味深かった。男女2体が抱き合うように埋葬されていたり、犬が丁寧に埋葬されていたりした跡もあるそうだ。豊かな縄文時代が船橋にあったということだ。

 

次は農産物直売所「ふなっこ畑」に立ち寄った。地場の新鮮野菜をちょこっと買った。地図で見るとこの直売所は円を描く道路の真ん中にある。不思議なこの円形は昔この場所に海軍の無線基地があった名残だそうだ。世界トップクラスの無線基地で、真珠湾攻撃の暗号電文「ニイタカヤマノボレ1208」を送信した場所だという。

 

この辺りでちょっと横道にそれ、副業に(笑)

https://pictree.greenwaygrid.global/

ゲームのやり方はよくわかっていないのだが、指定された電柱の写真を撮って送るとポイントが稼げるのだ。7,8本の電柱を制覇して「駅からハイキング」のコースに戻った。

 

次に訪れたのは印内八坂神社だ。

印内八坂神社は、享保18年(1733年)、周辺の村々で疫病が大流行したとき、光明寺の住職が牛頭天王(素戔嗚尊と同一視された神仏習合の神)を祭神とする京都の八坂神社の分霊を勧請して寺の隣に祀ったのが始まりと伝えられています。

ハイキングの最後はイチゴ農園で、お土産を買って帰れるかと楽しみにしていたが、あいにく休みだった。ビニールハウスの隙間からよだれを垂らしながら写真を撮った。

 

船橋の歴史と都市型農業をおおいに学び、最後は西船橋駅にゴール!

春一番が畑の土を巻き上げ、耳の中までじゃりじゃりになったけれど、暖かくて気持ちの良いお散歩だった。

 

11.9Km

 

静寂の寺と賑わいの街~高田馬場から日暮里へ歴史と文化再発見トレイル~ 2025.12.07

前日まで、修善寺の紅葉を見に行こうと思っていたのだが、朝起きたら億劫になってしまった。

それで高田馬場スタートの近場コースへ。

 

最初に訪れたのはおとめ山公園。乙女山とはロマンチックな!と思ったら立ち入り禁止の意味の御留山なのだそうだ。

この公園周辺の台地にはいくつもの谷がひだ状に入り込んでいて、こうした谷の先端ではかつては湧き水が多くみられ、今も湧水が園内の流れや池を作っているという。蛍を保護育成している池もあった。

管理事務所のガラス戸つきの掲示板にはいくつか昆虫や蝶や蛾の標本が貼り付けられていた。スズメバチの大きさには驚いた。カブトムシと同じくらいだ!クワバラクワバラ

 

次に切手の博物館へ行った。

ふざけた(?)ポストがお出迎え。古切手を使って絵を作る楽しい催しもあるようだ。

 

切手の博物館から目白駅はすぐ近く。

おお、ここは秋篠宮さまが紀子さんにプロポーズされたという横断歩道ではありませんか!

 

銀杏並木を眺めながらしばらく歩くと護国寺に出た。

本堂に上がる階段の手前に「音羽富士→」という小さな案内があった。行ってみると富士塚のようだ。

高さは5,6mかと思うが登ってみると意外と大変。足元が危ない!足首や股関節の柔軟さが失われていることを思い知らされた。

 

護国寺から大塚を越えて庚申塚まで行く。ここでUターンすればおばあちゃんの原宿巣鴨地蔵通り商店街だ。

商店街入口ととげぬき地蔵尊髙岩寺

 

畳屋と看板にあるけど、雑貨屋さん? お父さんを預かってくれる昆布屋さん

なんだかおもしろいお店があるなぁときょろきょろしながらおばあちゃんの原宿を通り抜け、次に六義園を目指す。

 

有名な枝垂桜も今は枝のみ。この季節は紅葉のためにライトアップが行われるようだ。

 

ライトアップを待たずとも、午後の光を透かす紅葉の色は素晴らしかった。

 

コースも終わりに近づいてきたところで、またまた賑やかな商店街を通る。

道の両側に惣菜や飴、土産物など約60店舗が並ぶ谷中銀座商店街、レトロな雰囲気が外国人に人気らしく、大変な混雑ぶりだった。

夕焼けだんだん

ここからの夕焼けはきれいだったんだろうなぁ。今や、ビルに埋もれている感じになってしまった。

でもこの階段を上がり切れば見通しは開ける。下御隠殿橋(別名トレインミュージアム)だ。数多くの列車が行きかい、見飽きることがない。子供たちには大人気だ。

コースはこの先、日暮里駅を越えて日暮里繊維街を往復するようになっていたが、スマホのバッテリーが切れそうだったので、ここでおしまいにしておいた。

近場の散歩ではあったが、きれいな紅葉も見られたし、伊豆まで行かなくても大満足だった。

 

14.2Km  よく歩きました。

 

 

蔦屋重三郎の足跡をたどり江戸文化を感じるコース ~2025.11.23~

秋も深まり、都心でも紅葉が美しくなってきた。文化の日の今日は蔦重の足跡をたどるのハイキングだ!

スタートは神田駅。少し歩くと耕書堂跡という看板があった。こんなところだったのかぁ

蔦屋重三郎「耕書堂」跡

所在地 中央区日本橋大伝馬町十三番

江戸時代の本町通り(現在の大伝馬本町通り)は、日本橋を起点とする五街道のうち奥州・日光街道の道筋に当たる江戸屈指の目抜き通りでした。この通りに面する「通油町」には、江戸時代中期に活躍した蔦屋重三郎(一七五〇~一七九七)の書肆(出版兼販売)「耕書堂」がありました。 寛延三年(一七五○)、幕府公認の遊郭・新吉原(現在の台東区千束)で生まれた重三郎は、幼くして新吉原で茶屋を営む喜多川家の養子となりました。安永元年(一七七二)には新吉原大門口の五十間道にあった義兄の茶屋「蔦屋」の軒先を借りて貸本・ 小売取次の商売を始め、安永四年(一七七五)からは吉原の案内書である「吉原細見」 の版元として出版に乗り出し、吉原関連の絵草紙や黄表紙なども手掛けました。吉原細見の独占出版を始めた天明三年(一七八三)には、数多くの書肆・草紙屋・問屋が軒を連ねる日本橋の通油町に拠点を移し、黄表紙・洒落本・狂歌本・錦絵などを出版して、江戸でも有数の地本(江戸で出版された草紙類)問屋となりました。重三郎は、江戸の人々の嗜好や時流を捉えること、才能のある戯作者・絵師などを見抜いて大成させることに長けていました。戯作では朋誠堂喜三三・大田南畝恋川春町山東京伝十返舎一九など、絵師では勝川春章・北尾重政・鍬形蕙斎・葛飾北斎喜多川歌麿東洲斎写楽などの作品を出版し、版元として数多くの実績を残しました。

寬政三年(一七九一)には、寛政の改革による出版取締令の対象となり、重三郎が手掛けた出版物の発禁処分や身上半減の闕所処分(財産の半分を没収)などを受けて商売の縮小を余儀なくされます。しかし、趣向を変えて出版を続けた重三郎は、翌年に画才を見出し庇護してきた歌暦による美人大首絵を発表して一世を風靡しました。

さらに、寛政六年(一七九四)から翌年には、写楽による役者絵を次々と出版して人気を博し、寛政九年(一七九七)に没するまで日本橋の地で大きく躍動しました。

葛飾北斎が手掛けた江戸名所絵本『画本東都遊』には、紅絵問屋の看板を出す「耕書堂」の店舗内外の様子が描かれており、往時の繁盛ぶりをうかがうことができます。

令和七年六月

監修:中央区教育委員会

今はオフィス街で、休日のせいか、オフィスの引っ越し作業をしている人々を何件も見かけた。

 

北上して浅草橋の問屋街を通り両国橋を渡って隅田川沿いの「隅田川テラスギャラリー」を眺めながら歩く。江戸時代と明治時代の両国の花火の浮世絵など見比べるのも面白かった。

川沿いの旧安田庭園に立ち寄った。

旧安田庭園の沿革

元禄年間(1688~1703)に、徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院実弟で、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園である。

明治になって旧備前岡山藩主池田章政侯爵邸となり、明治24年(1891)には、安田財閥創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正11年(1922)に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。

大正12年(1923)9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和2年(1927)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった。 

昭和42年(1967)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年(1971)に新装開園し、現在に至っている。

明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成8年 (1996)、東京都の「名勝」に指定された。

後ろに見える大屋根は両国国技館だ。

 

再び「隅田川テラスギャラリー」をぶらぶら歩き、駒形橋を渡ってまた隅田川の西岸へ。駒形橋からの鉄板の写真を一枚!(天気が悪いのでイマイチ)

雷門と仲見世通り

聞きしに勝るインバウンドのお客様たちだ。妙な着物を着てご満悦の若い人も多かった。

浅草寺の近くの台東区民会館の建物内では「べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館」というのを設えてあるらしかったが、入場料が高いので行かなかった。お弁当もべらぼう!

 

浅草寺を回り込んでさらに北へ行くと吉原だ。吉原弁財天に着いて、ああ、ここは来たことがあると思った。もっと広かった印象がある。小さな石ころのような遊女のお墓もあり、哀れな遊女たちが火事の火の手を逃れようと池に飛び込んだ書いてあった気がする。あの時はなぜか化粧品のような匂いが漂っていて、観音様も妖気に包まれていた。その晩は金縛りにあい、遊女の霊を連れてきてしまったかと思ったものだ。

この日は二度目のせいか、そんなに感傷的ならずにすんだ。

 

すぐ近くには吉原神社がある。こちらは大河ドラマの最初のほうでよく登場していた。ドラマのセットから持ってきたような新しいお狐様がいた。綾瀬はるかの声が聞こえそうだ。

その後、強面のお兄さんが店々の入口に立つ風俗街を通り抜け、吉原を出る。

見返り柳

見返り柳

旧吉原遊廓の名所のひとつで、京都の島原遊廓の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったということから、「見返り柳」の名があり、

きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな

見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材となっている。 

かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。

平成八年七月

台東区教育委員会

 

吉原大門を右折してしばらく行くと正法寺というお寺があり、裏庭に蔦重のお墓がある。お寺自体はビルの中だ。

 

 

裏庭に出るガラス扉に墓碑銘の説明を貼ってくれてあったので、丸写しする。

正法寺 蔦屋重三郎と蔦重実母の墓碑銘現代語訳

喜多川柯理墓碣銘

喜多川柯理(からまる) 本性(生家の苗字) 丸山、蔦屋重三郎と称する。 父は重助、母は広瀬氏。寛延三年庚午一月七日江戸吉原の里に生まれる。

幼くして喜多川氏の養子となる。その人となりは志、人格、才知が殊に優れ、小さな事を気にもせず、人には信順をもって接した。吉原大門の外に一軒の書店を開き、後に通油町に移転、父母を迎えて厚く養ったが、その父母も相次いで亡くなった。柯理は廓(吉原)の産業を盛んにし人々を豊かにすること、当に陶朱公(古代中国の大商人)のようであった。その巧思妙算(発想力や人を結びつける力と世事物事を見通す計算高さ)は他の及ぶところなく頭抜けていて、ついに耕書堂という大店を成すこととなった。丙辰の年の秋に重病を得て一ヶ月後危篤となる。寛政丁巳の年の夏、五月六日にこう言った「私は今日の昼時には死ぬよ。」身の回りの始末をし妻と別れの言葉を交わし、昼時になり笑ってまた言った「自分の人生は終わったはずなんだが(芝居の終演に鳴らす) 拍子木がならない。ずいぶん遅いな。」

言い終わった後はもう言葉を発することはなく夕刻になって亡くなった。齢四十八歳。山谷の正法精舎(当山正法寺)に葬られた。自分は十里を離れたところに居てこの訃報を聞き畏れの心と共に心底驚いた。まさに悲痛の極みである。まあでも私はただの霽壌間の一罪人に過ぎない、ちっぽけな余生を君と知り合うことのできた恩遇と共に過ごすことにしよう、今はこんな気持ちである。ああ命の儚さよ。

銘日人間常行載在稗史 通邑大都孰不知子(人生の歩みを墓碑銘に記載しておくのは、都会の生活の中でいずれ子孫が知らなくなるからだ。)

石川雅望 大田南畝

 

実母顕彰の碑文

広瀬氏は本屋耕書堂 (蔦屋重三郎)の母、諱(いみな)は津与、江戸の人である。尾陽の人丸山氏に嫁ぎ柯理(からまる、蔦屋重三郎)を生みのち離縁する。柯理は幼くして喜多川氏の養子となり蔦屋重三郎と称する。その住まいは吉原大門のそばにあった。天明三年癸卯の年九月に城東の通油町に居を移し書店を開く。商売を競って優れた本を次々に出版し大いに繁盛、江戸の言い伝えでは皆その店を耕書堂と呼んだという。寛政四年壬子の年十月二十六日、広瀬氏病死し城北の山谷正法寺に葬られた。癸丑の年二月、柯理が来て言うには「私は七歳で母と別れさみしい思いをしたが後に再会することができて今の自分がある。願わくば片言の言葉を墓に捧げてその苦労に報いてやりたい。」私はこう言った「あなたは(寛政の改革による弾圧で) 破産し獄中にもあった、なのにそんな逆境を乗り越え起業を成した。そんな人物が他にいるだろうか。子のすべき行いとは、母の遺した教えを変えることなく大切にし努力することである(だから蔦屋重三郎は成功したのだろう)」

銘日 小說九百母德可摘(愚者の小説より母の遺徳を参考にすべし)

寛政癸丑暮春 南畝子題

 

ドラマはいよいよ残り数回だ。どんな終わり方をするのか楽しみでもあり、名残惜しくもある。

ハイキングも蔦重のお墓を最後に、南千住駅にゴールして終わりとなった。

12Km

 

八ヶ岳と南アルプスに囲まれた小淵沢駅絶景ハイキング 2025/11/2

お天気最高!の日曜日はちょっと遠出をした。

新宿からあずさに乗ると、多くの人(外国の方々)は大月で降りた。みんな富士山に行くのだなぁ。富士山は遠くから見たほうがいいよ~

私は小淵沢まで。

 

まずは小淵沢のパワースポット、大滝神社へ行った。

大滝神社

豊かに流れ出る水がここからずっと下の田畑を潤している。

八反歩堰

用水路沿いに整備された小道。用水路の水源は大滝神社に湧く「大滝湧水」で、せせらぎの音と広々とした田園風景が楽しめ、日本の原風景を感じることができる。

二枚目の写真のバックにはうっすらと富士山が写っているのだが…

八反歩堰を抜けると、「三峰の丘」というところに出た。小高くなっているわけでもなく、ただの畑の中。駐車スペースが2,3台分あるというだけの場所。名前の由来は日本三大巨峰(富士山、北岳奥穂高岳)が一望できるということだそうだ。

富士山、北岳

力いっぱい望遠で撮ったが、奥穂高岳はこの位置からはムリ!見えなかった。

気を取り直して、てくてく歩く。ときどき富士山が銭湯の壁絵のように顔をのぞかせる。やっぱり遠くから見るのがいいでしょう?

しばらく歩いて、到着したのは越中久保溜池というところだ。

越中久保溜池

後ろは八ヶ岳。素晴らしい景観だ。

これでおもな見どころは終わり、あとはゴールの長坂駅を目指して歩くだけ。

と思ったら、巨木が現れた。

鳥久保のサイカ
山梨県指定天然記念物、鳥久保のサイカチ
サイカチは日本固有のマメ科の落葉高木で、本州、四国、九州の山野に自生しています。幹や枝には鋭い棘が多数あり、花は同一株に雌雄別のものがつきます。豆果はサポニンを多く含み、洗剤として利用されてきましたが、このサイカチには豆果はつきません。
この木はサイカチとして稀に見る巨木で、地上1.3mでの幹囲5.2m、枝張りは東西13m、南北13.5m、樹高は 10.1mを測り、国内有数の規模を誇ります。根本付近の幹にはこぶや枯損部が見られますが、樹勢は旺盛で、古木にふさわしい風格を感じさせます。
この木を植えたのは、鳥久保集落を開いた井出久左衛門といわれています。今川義元の家臣であった久左衛門がこの地に定住して、屋敷の北西(乾の方角)にエノキ(江戸末期に枯死)、南東(巽の方角)にサイカチを植えたと伝えられています。
所在地 北杜市長坂町中丸3954
指定年月日 昭和45年10月26日
北杜市教育委員会

 

そのほかにも気になった野辺の花や実を写真に撮った。

アレチウリ、アオツヅラフジ、センニンソウ?、ヘクソカヅラの実、美味しそうなキャベツ

爽やかな空気の中、よく歩きました。(熊に出会わなくてよかった…)

12.4Km

 

おまけ

このアプリが優れモノだった。東京にいては使い道がなかったが、初めて使ってみた。周囲の山の名がすぐにわかって楽しい!

これを使うためにまた山が見えるところに行きたいなぁ。

aryamanavi.com

もう一つおまけ

甲府で一時間ほど電車待ちの時間ができてしまったので街に出てみた。甲府には8歳まで住んでいたのだ。記憶はほとんどないし、街も変わっているし、わからないだろうと思いつつ、名前を憶えていた小学校までの道を歩いてみた。

やはり何もわからなかったが、空には彩雲が現れた。振り向いて駅のほうを見ると大きな富士山が見えた。若き日の父も母もこの風景を見ていたのだろうと思うとちょっと胸がキュンとした。