春うらら、いしにえの青梅を感じて 2024/03/17

昨年三月にも青梅に行った。その時は青梅駅より西側のコースだったが、今回は東側のようだ。

 

駅前から続く街並みには昭和レトロな雰囲気が残る。…と思ったら、看板にそう書いてあった。

そんな街を抜けて最初に訪れたのは住吉神社

住吉神社

青梅市指定史跡 『住吉神社

応安二年(一三六九)延命寺を開山した季竜が、 創建と同時に季竜の故郷である摂津国住吉明神をこの地に祀ったのが始まりと伝えられる。

旧青梅村の総鎮守であり、祭神は上筒男命、中筒男命底筒男命神功皇后である。例祭は四月二十八日(江戸時代は三月二十七、二十八日)、ま た、五月二、三日には十二台の山車巡行が行われ ている。

変形春日造(背面入母屋造)の本殿は、正德六年(一七一六)に建立され、棟札には泉州(大阪府南部)出身の大工名等も記載されており、上方建築の影響がみられる。また、拝殿・幣殿の再建は、文政七年から天保六年頃と推定され、江戸時代に立てられた本殿・幣殿・拝殿が一体として残り、たいへん貴重である。

さらに境内地には、稲荷神社、八坂神社、大鳥神社をはじめ櫛笥大納言隆望卿女歌碑、小林天淵筆塚碑等があり、青梅宿の町人文化の高さを今も伝えている。 

昭和二十八年十一月三日 指定

青梅市教育委員会

拝殿の天井には画家小林天淵の筆になる雲竜図があるとのことだ。覗いてみたが、見えなかった。

 

次に訪れたのは延命寺だ。

延命寺

臨済宗建長寺派の寺院。応安2年(1369)創建で、山号は住吉山。開山した李竜元筍禅師の郷里である大阪府堺市住吉明神を鎮守として勧進したことが山号の由来となった。創建以来火災に遭うことがなかったため、創建当時の面影が今なお残っている。安産子育ての「呑龍さま」として親しまれている。青梅七福神めぐりの大黒天。

境内には大きな木蓮の木があった。

延命寺入口の五重塔

この五重の塔は、青梅市本町小野其治氏(41)が、昭和七年 (一九三二)七月に突然の病で亡くなった愛息(11)を悼み、 自らの手により製作、建立されたものです。

幼子を亡くした余りの悲しさで、仕事の傍ら夜毎の墓参を続ける姿に心痛めた住持より「永劫の供養」を薦められ、五重の塔の建立を思い立ちました。

そして、浅草の浅草寺に度々足を運び、写実をくり返し設計図を完成させました。

その後、のちに棟梁となる青梅市千ヶ瀬町工匠・志村福重氏(20)と共に製作し、木組み工法で組み上げ、昭和九年 (一九三四)八月に建立し、奉納されました。

台下の納骨堂の礎には、三百余字の一字一石経を自ら浄書して埋め、また塔内には当寺伝来の厄除観音菩薩が奉安されています。

二〇二〇年五月

住吉山延命寺

親族一同

昭和七年と言えば、私の父の生まれ年だ。ということは、この塔を作った小野其治氏は私のおじいさんと同じくらいの年代を生きた方だったと思う。私のおじいさんも、最初の子供に「雪子」と名をつけたところ雪のようにはかなく死んでしまい、それ以降は自分で名前を付けるのが怖くなって村のお坊さんに名づけを頼んだと聞いている。

いつの時代も子を亡くした親の心情に触れると胸にこみあげるものがある。

 

次にすぐ近くの宗建寺に行った。

宗建寺

臨済宗建長寺派の寺院。室町時代後半に浄土宗の寺院として創建され、のちに臨済宗建長寺派となったと伝わる。毘沙門天を本尊としていることから、青梅七福神めぐりの毘沙門天になっている。日輪を模した本堂の天井が、珍しい形の庚申塔、義賊として有名な裏宿七兵衛の墓など見どころが多くある。

宗建寺

裏宿七兵衛は知らなかったが、足が速い盗賊だったそうで、今でもアスリートの人たちがお参りしたりするそうだ。それよりも、私は干刈あがたのお墓というのが気になった。

作家 干刈あがたの墓

新聞小説の『黄色い髪』をはじめ、野間文芸新人賞の『しずかにわたすこがねのゆびわ』で知られる女性作家、干刈あがた(ひかりあがた)は、戦時下の昭和十八年一月、まだ西多摩郡と呼ばれた青梅町勝沼二十五番地に生れ、小学四年生の十二月杉並区の新居に移るまでの多感な九年あまりを当地で過ごした。

都立富士高等学校から早稲田大学第一政経学部新聞学科に進学、経済的な理由で退学。結婚して二児を育てながら、子供時代を過ごした青梅を描いた自作の短編と詩、採集した沖永良部の島唄をまとめた「ふりむんコレクション 島唄」を本名の浅井和枝で昭和五十五年に自費出版した。

昭和五十七年『樹下の家族』(海燕新人文学賞)以来十年間に、芸術選奨新人賞を受賞した『ゆっくり東京女子マラソ ン』など、家族のゆらぎ、女性の自立、人と人との新しい絆、 教育や老いの問題について書き続け、女として母として等身大の発言者として注目された。晩年の小説『野菊とバイエル』には、新しく市に生まれ変わった青梅、映画館が二軒もあり織物の盛んだった町の生活が生き生きと描かれている。 平成四年コスモスの咲く九月、四十九歳の若さで永眠。墓は宗建寺第二墓地内にある実家柳家(やなぎけ)の墓所内に、実兄により建立された。

平成二十三年九月六日

干刈あがたコスモス会

干刈あがた、今度読んでみよう。

 

乗願寺

市指定史跡 勝沼山乗願寺

神奈川県相模原市当麻・無量光寺(時宗) の末寺で本尊は阿弥陀如来である。正安二 年( 一三〇〇)三田下総守長綱が他阿真教上人を迎え、 開山したと伝えられる。また一 説には、鎌倉将軍家久明親王の帰依した鎌倉光明寺の二世・白旗寂恵の弟子箕田定恵 の開基ともいう。

天正十八年(一五九〇)兵火のため炎上し記録類が失われた。慶長年間(一五九六~一六一四)に至り、二十四世・覚阿性海が再建、慶安二年(一六四九)には阿弥陀堂領として三石の朱印地が与えられている。

寺宝に、三田綱秀が用いたと伝えられる兜の前立てと旗指物(軍旗)があり、市指定有形文化財に指定されている。

また、寺域には青梅の書家、小峯峰真の墓がある。

昭和二十八年十一月三日 指定

青梅市教育委員会

お寺はどこも墓参や法事で集まった人々が引きも切らず、線香の匂いが漂っている。

青梅の人々は信心深いなぁ…と感心したが、気がつけばこの日は彼岸の入りだ。暖かさに誘われて早めにお参りを済ませたのかもしれない。

 

次に訪れた天寧寺は大きなお寺だった。

天寧寺惣門

東京都指定史跡
天寧寺境域
所在地 青梅市根ヶ布一ー四五四
大正一四年五月標識指定
昭和三五年四月一日 史跡指定及び名称変更

天寧寺は曹洞宗名刹で、室町時代文亀年間(一五〇一~〇四)に当地の領主三田弾正政定が再興したものです。

 江戸時代には末寺三七を数える大寺院でしたが、たびたび火災にあい、堂宇のうち、本堂、禅堂、中雀門、通用門、書院などは江戸時代中期、また、総門、山門、鐘楼、庫裡などは江戸末期の建立です。 

丘陵を背景にした七堂伽藍の配置は旧時の状態をよく保っており、都内の曹洞宗寺院として伽藍がよく残っています。

総門は四脚門の冠門。山門は三間一戶、二階二重門、入母屋造、茅葺型銅版葺。中雀門は一間一戶、向唐門、柿葺型銅版葺。本堂‧書院及び禅堂は単層寄棟造り、茅葺型銅版葺。庫裡は単層、 入母屋妻入造、茅葺型銅版葺です。茅葺であっ たものを昭和三五年(一九六〇)よりの解体修理により銅版葺に変えたものです。

平成二二年三月 建設
東京都教育委員会

山門

中雀門
僧堂・法堂

 

天寧寺の裏手から30分ほど歩いて勝沼城跡に着くはずだったが、道を間違えたのかそれらしい場所に行きつかない。説明書きはあったのだけれど…

東京都指定史跡
勝沼城跡

所在地 青梅市東青梅六丁目五八番外
指定大正十四年五月標識
昭和二十七年四月一日史蹟 
昭和三〇年三月二十八日旧跡 
平成五年三月二十二日史跡

勝沼城は、霞川上流部を南に臨む丘陵に位置し、 主郭標高二一五メートルを測る平山城です。三つの曲輪で構成されています。曲輪は東西に並び、中央が主郭であると考えられます。曲輪周囲には、空堀や土塁など防御施設の遺構が良好に保存されていま す。
築城年代や築城者は不明ですが、平将門の末裔と称し、多摩川上流の三田谷を勢力としていた三田氏の居城でした。永禄四年(一五六一)に上杉謙信が関東を席巻すると、管領上杉氏の勢力下にあった三田氏らは上杉謙信の旗下に入ります。その後、上杉謙信が越後(現在の新潟県)へ帰国すると、敵方の北条氏による反撃が開始され、永禄六年(一五六三)頃には滝山城北条氏照により三田氏は滅ぼされました。
『新編武蔵風土記稿』によると、三田氏滅亡後の 勝沼城には北条氏照の家臣、師岡山城守将景が入城したとされており、師岡城とも呼ばれています。 現存する遺構は、その構造から北条氏勢力によって修築されたものと考えられます。 昭和五〇年には東京都の歴史的環境保全地域にも指定され、青梅市が管理しています。

令和四年三月建設

東京都教育委員会

土塁とか空堀とか、わからないし…

急な傾斜のお墓の中を下り降りて見上げると、う~ん、やっぱりあそこがそうだったのかな?

勝沼城跡?

謎の勝沼城跡をあとにして、さらに30分ほど歩くと春日神社に着いた。

春日神

東京都指定有形文化財(建造物)
春日神社本殿 一棟 付 本殿棟札三枚
所在地 青梅市野上一丁目三八番地
指定 平成二年三月二二日

慶安元年(一六四八)多摩郡下師岡村の名主吉野太郎右衛門と同郡吹上村の名主塩野喜右衛門の発願により、 大工吉沢藤兵衛が建立したものである。
寬廷二年(一七四九)には屋根修理、文化二年(一八〇五)には本殿の向拝・縁まわりなどの修理が行われている。
形式および構造は一間社流れ造り、瓦棒銅板葺きで、 身舎の規模は桁行柱真々二・三六三メートル、梁行柱真々ニ・一一五メートルとなっている。

当本殿は、多摩地域における数少ない江戸初期の遺構で、春日神社が立地していた古村地帯における中世からの歴史的な技術や美意識を伝える貴重な神社建築である。 また、一間社としては規模も大きく、建築的な質の高さをうかがうことができる。

令和元年八月建設

東京都教育委員会

「かすがさま」の例祭日に奉納される獅子舞は市の無形民俗文化財となっているそうだ。

さぁ、これでおもな見どころは終わり!ゴールの河辺駅を目指す。

河辺駅前にはビルの中に温泉がある。そこで一休み、お風呂に入ってビールを飲んでプハー

 

暖かな春の日、よい散歩でありました。

9.7Km