霧降り(魔王)の滝を目指して ~早春、湘南ひらつかに広がる美しい里山散策と歴史探訪~ 2022/05/03

日差しは強いが暑くもなく寒くもなく、最高のお天気の旗日。湘南平塚を目指した。

江戸時代に整備された東海道五十三次、平塚宿は7番目の宿場だ。

国道一号線沿いにはそれにゆかりの説明板などが続く。

平塚宿の江戸見附

平塚宿の江戸見附

平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。

本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。

平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約一・五キロメートル)、東から十八軒町・ 二十四軒町・東仲町・西仲町柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東西の問屋場二箇所、高札場、 旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。 

一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。

平塚宿江戸見附は、長さ約三・六メー トル、幅約一・ 五メートル、高さ約一・ 六メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。

平成十三年(二〇〇一年)十月

平塚市

 

神奈川銀行平塚支店前にはこの企業が建てた記念碑もあった。

平塚宿本陣旧蹟碑 

海道宿駅の高級旅館で徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい これに次ぐものを脇本陣と呼んだ

東海道平塚宿の本陣は 代々加藤七郎兵衛と称し現在の平塚二一〇四番地神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた

 総槻造 間口約三〇米 奥行約六八米

 東に寄って門と玄関があり 天皇や将軍大名などの御座所は上段の間であったという

記録によると 徳川十四代将軍家茂は文久三年二月 元治二年五月の二回ここに休憩している

また明治元年十月と同二年三月の両度 明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休された

このたび 平塚支店改築にあたり旧跡碑を建てて永く記念とする

昭和四十七年の秋

神奈川相互銀行取締役社長 半田 剛 撰

 

要法寺

要法寺境内には蓮鉢がたくさん置いてあった。今年の大河ドラマとも関係がありそうなお寺だ。

日蓮大聖人御一泊御説法霊場

松雲山要法寺縁起

当山は鎌倉時代、幕府の執権北条泰時の次男北条泰知の屋敷でありました。

泰知は日蓮大聖人に帰依し、平塚左衛門尉泰知と呼ばれ人々に尊敬され、この地において地頭をしていました。 弘安五年九月八日未明、泰知は 夢枕に「日蓮聖人が十六日平塚にご来臨される」という七面天女のお告げを受け、平塚の主だった人々百六十余名と共に日蓮聖人を出迎え、この地にご宿泊をいただきました。その夜日蓮聖人が法華経神力品「四句要法」の一節を御説法したところ、邸内にあった平 真砂子 の塚(平塚の塚)にそびえ立つ老松に、紫雲がたなびくという瑞相があらわれました。 それを見た一座の面々は、お題目を唱和し法華経の信者になったのでした。 わけても泰知は深く感動し、自らの館を献上して寺とし、日蓮大聖人より「紫雲の瑞相」にちなみ 「松雲山」一夜説法「四句要法」にちなみ「要法寺」との山号と寺号をいただき当山は開山されました。 時に弘安五年(一二八二年)九月十六日 日蓮大聖人御入滅、二十数日前の事でした。

開祖 日蓮大聖人

二祖 九老僧 形善院日澄上人

三世 開基 松雲院日慈上人(平塚左衛門尉泰知)

 

ここから市街地を離れて山の方へ向かっていく。

妙覚寺四脚門

神奈川県指定重要文化財

妙覺寺四脚門 一棟

昭和四十八年十二月二 十一日指定

四脚門とは、本柱筋の前後に各二本、計四本の控柱を立てるところから、この名があります。

妙覺寺の四脚門は、大正十二年の関東大震災前には扉もあり、茅葺で、黒く塗られていたため、「黒門」とも呼ばれていました。

斗栱の背は高く、蟇股の形等も室町時代末の形式を示していますが、実年代は桃山頃と推定されます。

鎌倉地方の室町末から江戸初期頃の四脚門が宗派を問わず禅宗様であるのに対し、この四脚門は親柱の上部の頭貫や台輪など、部分的に禅宗様を取入れていますが、全体の意匠は軽快な和様の風があり、西相模における室町末から桃山時代の建築様式の一端を伝える貴重な門です。

令和四年三月

平塚市教育委員会

 

丘陵地帯のハイキングコースをとことこ歩くと分かりにくい道しるべが(笑)

 

八剱神社

これは上吉沢の方だったかな。

この神社の向かい側の丘にへばりつくようにカラフルな三角屋根のおうちがたくさん見えた。

湘南日向岡住宅っていうんだって

東急電鉄が開発した住宅地で、新幹線の車窓からよく見えるらしい。

 

ハイキングコースをさらに進むと吉沢の池に出た。

吉沢の池

吉沢の池

この池は、日之宮山 (標高約150m) を水源とする宮下川 の水を溜めた池で、広さは 49m×30m、水深は約10m。昭和10年 (1935) に食糧増産を目的として作られたもので、水不足のたびに利用されている。 なぜこのような溜池が必要かというと、 吉沢の山々は、鷹取山レキ岩層と呼ばれる大変硬い岩盤からなっているため、 この地域の降水は、地水とならず地表水となり、乾燥期には水量が極めて少なくなるからである。

池の周囲にはベンチがいくつかあり、ハイキング途中で休憩できるようになっていた。

そこに腰かけていたおじいさんが「私、車で来ているのでよかったら茅ケ崎までお送りしますよ」と隣のベンチのおばあさんをナンパしていた。( *´艸`)

 

 

さらに狭い山道を進んでいくと、目指す霧降の滝に着いた

霧降の滝

高さ12m、水量の多い時はまるで霧のように流れ散るのだそうだ。

ここからは舗装された道に出て下山する。

 

松岩寺

松岩寺裏手の墓地からは湘南の海や三浦半島まで見渡せる絶景だった。

 

ジェラテリア ベガ

最後はジェラートをいただいて今日の行程はおしまい。この後、バスで帰路についた。

 

10.3Km

 

おまけ

父の兄(もう両方とも故人)は農林省に籍を置く学者さんだった。私たち子供は「平塚のおじちゃん」と呼んでいた。おじちゃんも私の両親も若い頃、子供連れでお互いを訪ねたりしたのだろうが、私の記憶に残っている平塚の情景はない。幼過ぎてなにも覚えていなかったのだろう。「七夕まつり」や「大磯海水浴場」が言葉として浮かんでくるのは、その後両親が「あの時はこうだったね」と話していたのを記憶しているのかもしれない。

今回、平塚を訪ねて、おじちゃんはどこにいたのだろうと思って調べてみた。「平塚市総合公園は旧農林省果樹試験場跡地だった」との記述があり、ああ、きっとここだと思った。農林省果樹試験場は昭和52年に筑波研究学園都市に移転したようだ。

そういえば、「平塚のおじちゃん」はいつの間にか「つくばのおじちゃん」になっていたっけ。