羽村春の花と水紀行~多摩川に沿って桜からチューリップへ移り行く路~ 2022/04/03

小雨そぼ降る日曜日、都心ではもう散り始めた桜がまだ残っているかと思い、少しだけ遠出をした。

スタートは羽村市観光案内所!ペットボトルの水を1本いただいて、いざ、出発。

www.city.hamura.tokyo.jp

まず最初に訪れたのは禅林寺

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禅林寺

1883年、村議会の議場でもあったここで羽村福生・立川の有力者により「養蚕集談会」が開催されたことを機に、西多摩は日本有数の養蚕地帯となったそうだ。

 

禅林寺をほんの少し南に下ると、多摩川の流れに突き当たる。両岸の桜がちょうど満開で見とれてしまい、羽村取水堰の写真を撮りそこなった気がする。

投渡堰という、台風などの増水時には堰を取り払って洪水を防ぐ仕組みで作られており、国内で唯一とのこと。

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多摩川の流れと桜  この手前が取水堰、、かもしれない

川沿いの美しい桜はまだまだ続く。

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この写真の一番手前の枝垂れ桜は「三春の滝桜」と説明書きがあった。「三春の滝桜」と言えば天然記念物のあの?? 

枝分けしたものらしいが、天然記念物から枝分けってどうなんだろう?

 

youtu.be

 

桜は満開だったが、チューリップはまだまだだった。天気が悪かったので人もまばらだったが、一面に咲く頃には大勢の人でにぎわうのだろう。駐車場も準備万端、交通整理の人もすでに配置され退屈そうにしていた。

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根がらみ前水田(チューリップ畑)

 

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一峰院の鐘楼門

羽村市指定有形文化財 
一峰院の鐘楼門 
当門の構造形式は、一間三戸、鐘楼門、入母屋造桟瓦葺(当初は茅葺)であり、正面は南に面しています。建築年代は「諸色写之帳」(小林清家文書)によると文政2年(1819)頃で、大工は羽村などで活躍した木野下村(現青梅市)の堂宮大工小林藤馬です。 
この門の大きな特徴は、寺院の山門としての楼門(二階に腰縁をもつ形式)と鐘楼を兼ねていて、二階部分が、梵鐘を釣るために一般的な楼門と比べて建ちが高く、壁が設けられていないことです。また一間門であるにもかかわらず、三ヶ所に扉が付いていることや、すべての柱に角柱を用いていることも珍しい形式です。
建築様式は和様を基本として禅宗様との折衷様です。

平成11年3月
羽村市教育委員会

 

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阿蘇神社

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松本神社

松本神社は旧小作集落の鎮守

 

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青梅市市民球技場の桜並木

桜の花がまるごと落ちているのはスズメさんの仕業だそうだが、たくさん落ちている樹とそうでもない樹があるのはなぜかしら?

 

このあとJR河辺駅にゴールして、駅前の日帰り温泉でお風呂に入った。

ビールも飲めばよかったなぁ。ほどほど空いていて快適だったが、私が帰る頃、ぞくぞくアスリートの皆さんがやってきた。これの帰りかな?

www.sportsentry.ne.jp

アスリートの皆さんの汚れた足元と、対照的に晴れやかな顔を見て、こちらも元気をもらったような気がした。

 

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約8.1Km

渋谷再発見~坂の街で「喧騒と閑静」を感じるハイキング~ 2022/03/20

スタートはダンジョン渋谷駅。

受付を済ませるとエスカレータで上がれという。上がったらどうやって外に出るの?

まぁ、いいや。最初のポイント金王神社はよく知っているのです。勝手に行っちゃいます。

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金王八幡宮

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金王桜

金王桜

渋谷区指定天然記念物

金王桜は、長州緋桜という種類で、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜です。
八幡宮の「社傳記」によれば、文治5年(1189)7月7日 源頼朝藤原泰衡退治の下向の時、渋谷高重の館に立ち寄り当神社に現在社宝とされる太刀を奉納しました。
その際金王丸御影堂へ参り、父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、金王丸の名を後世に残すべしと厳命し、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植させ、「金王桜」と名付けたとされています。
また、江戸時代盛んに作られた地誌にも紹介されており、江戸三名桜の一つに数えられました。

金王桜は、現在に至るまで代々実生より育て植え継がれ、守り伝えられています。

ーーホームページより

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開き始めた金王桜の前で宮司さんたちが勢ぞろいして記念撮影をしていた。

 

金王神社から南に下り、渋谷川を渡る。渋谷川唱歌「春の小川」の舞台となり、かつてはのどかな田園風景が広がっていたという。

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渋谷川

さらに南に下ると猿楽古代住居跡がある。弥生時代の住居跡だそうだ。

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代官山の入り口には旧朝倉家住宅がある。こちらは大正時代の住居だそうだ。

以前訪問した際にブログに載せたことがあったと思うので、今回は蔵の写真を。

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蔵をバックにするように隣の敷地に枝垂桜の樹があった。ライトアップの用意がしてあったので、花が咲いたらまた訪れたいと思う。

 

朝倉家住宅の裏手には猿楽塚がある。

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猿楽塚

猿楽塚
ここにあるこんもりした築山は、六~七世紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した古代の墳墓の一種です。
ここにはその円墳が二基あって、その二つのうち高さ五メートルほどの大型の方を、むかしから猿楽塚と呼んできました。
この塚があることから、このあたりを猿楽といい、現在の町名の起源となっております。
ここにある二基の古墳の間を初期の鎌倉道が通っていて目黒川にくだっていました。
渋谷区のように開発が早くからはげしく行なわれた地域に、このような古墳が残されていることは非常に珍しいことです。
渋谷区教育委員会

 

大通りに出て、おしゃれな街並みを眺めながら西郷山公園へ。

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西郷山公園

西郷隆盛の弟で明治期の軍人・西郷従道の屋敷跡に設けられた公園。この写真の向こう側は目黒川に向かって下っている。

 

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桜の名所として名高い目黒川は、今年もお花見禁止のようだ。川沿いにはロープが張ってあって近寄れないようになっていた。そんな中、人だかりが…

ランドセルを扱っているかばん屋さんのようだった。後日職場で、こんな風景を見たと話題にすると、来年入学の人たちのラン活(?)が今なのだそうだ。びっくりだ。

 

首都高速大橋ジャンクションの屋上に目黒天空庭園という区立公園がある。

スーパーがその入り口になっているので、お昼ご飯を調達して、エレベーターで天空へ。

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目黒天空庭園から

写真は雲が多い空で開放感が伝わらないが、春の花々に囲まれて気持ちよくお弁当を食べた。ここで星空も眺められるのかしら…

 

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上目黒氷川神社
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ここにも富士山が…

 

正面入り口の急階段は、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現玉川通り)を拡張する際に、急こう配な石段に改修されたのだそうだ。

 

山手通りを北上して松濤に入る。

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鍋島松濤公園

公園の一角に材木が置いてある…と思って近づいてみたらトイレだった。

 

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隈さんのトイレ

tokyotoilet.jp

松濤は高級住宅地として名を知られ、大きなお屋敷が多い。その中でもひときわ目を引くクラシックな建物が…

近づいてみると、聞いたことのある名前のレストランだった。

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シェ松尾松濤レストラン

chez-matsuo.co.jp

閑静な住宅街を抜け、NHKの南を通り、渋谷区役所前へ。

しばらく来ていなかったけれど、区役所も公会堂も変わったのねぇ。

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公園通りを挟んで向かい側にはAmazon Musicがあった。そのわきを下っていくと北谷公園だ。

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北谷公園

民間活力を導入して再整備され、2021年に再開園した公園だそうだ。

公園のロゴは、区内にある桑沢デザイン研究所の学生が作成したとのこと。

 

明治通りに出て右手に向かうと宮下公園だ。

昔は若者(それもちょっとヤンチャな…)のたまり場だった宮下公園がファッショナブルな複合施設になっていた。横丁のような趣の1階の飲食店街を横目に見ながら、渋谷駅にゴールした。

 

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約8.8Km

東京のベニス?芝浦運河から天王洲を巡るキャナルサイドウォーク! 2022/03/19

歩きやすい季節になったので、駅からハイキングのコースもいろいろ用意されている。

この日のスタートは田町駅

まず最初に行ったのは、港区立伝統文化交流館というところ。中には入らなかったので何をやっているのかはよくわからなかったが、「千と千尋の神隠し」に出てくるような建物だった。

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港区立伝統文化交流館

 

このあといよいよ運河沿いの道へ。

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ヤナセ本社

芝浦とヤナセ
三井物産の機械部にいた梁瀬長太郎が大正4年に独立して梁瀬商会を創立したのが始まり。 三井物産から輸入自動車と 鉱油類の一手販売権を譲り受け、日比谷公園前に270坪を借り受けて店舗と工場設備を持ち営業を開始した。
しだいに事業は伸長して麹町区銭瓶町を手始めに、全国に事業所を拡大、大正8年3月には芝浦へ進出した。 当時の芝浦は、東京市港湾部の事業として埋め立てられた12万坪の広大な空地にあり、土地利用計画もまだ立っていなかった。この地の賃借権を得た同社では、期限の切れた昭和34年に同地を取得した。
そのころの芝浦の情景について、2代目社長の梁瀬次郎は、「見渡す限りの丈なす草原で、埋め立て後十数年も放置されていて、見る影もなかった。埋立地の間の掘割には橋もなければ道路もなく、掘立小屋がところどころに散らばり、岸壁に釣り人が見受けられる程度で、 電気水道はもちろんガス等の設備も何もない、荒野であった」という。
大正年間は、東京市は財政難の時期で、この広大な土地の売却を計画し、払い下げ入札をした。応札は梁瀬と中野貫一氏であった。 入札の結果、土地は当時の石油王と称せられていた中野氏が入手した。 しかし中野氏にさしあたっての利用計画がなかったため、 梁瀬は同氏と交渉し、その一部15,000坪を40年間という期限で賃貸契約し、昭和34年から同地を取得したもの。以来ここはヤナセの主要工場として重要な働きをし、終戦後一時米軍に接収されたが、解除後は本社となり現在に至っている。
芝浦一丁目町会70周年史 『変わりゆくわが町』より

 

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運河沿いの散歩道

黄色い船はTokyo Water Taxiだ。桜の下をのんびり船で周遊するのもいいかもしれない。

 

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夕凪橋とモノレール

複雑な掘割をあっちへ行ったりこっちへ行ったり、いくつもの橋を渡ったが、高層ビルとモノレールと小舟たち…なんていう風景もあった。

 

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ワンちゃんのうんちのことをpoopというのか…と妙なことに感心したり

 

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東京海洋大学 雲鷹丸

www.kaiyodai.ac.jp

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河津桜はもう葉が出始め

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寒緋桜は鮮やかな色

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ミッフィー

東品川会場公園のミッフィーちゃんは似てるのか似てないのか…

 

ゴールは天王洲アイル駅でした。

水辺の散歩は歩くのが楽でおしゃれでよいのだけれど、においがどうもね。。

 

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約8.7Km

春の逗子海岸 青い海と白い富士、歴史の道を歩こう 2022/03/12

この日は気温が20度を超えるという予報が出ていたので、長袖のアンダーシャツの上に半袖のポロシャツを重ねる流行のスタイル(?)で出かけた。それにしても、日よけ帽にサングラスにマスクというのはどう見ても怪しい。。

 

さて、気を取り直して、出発は逗子駅。駅からハイキングのスタッフの方か、改札の外から手招きしてくれ、最初の方角はあっちと親切に教えてくださった。

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JR逗子駅

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駅前の鮮魚店

 

最初のポイントは逗子の鎮守「亀岡八幡宮

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骨董市が開かれていた

 

田越川沿いにしばらく歩くと、小高い丘の上に六代御前の墓というのがあった。

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六代御前の墓

逗子市指定史跡
六代御前の墓伝説地
指定年月日 昭和五十三年二月二十一日
六代御前は平維盛の嫡男で、文治元年(一一八五) 平家滅亡の時、捕えられて処刑されるところ、文覚上人のおかげで助けられました。その後文覚の弟子となり、 名も三位の禅師と改め、平安の日々を送りましたが、正治元年(一一九九) 源頼朝が亡くなると、再び捕らえられることになりました(異説もあります)。
平家物語には、「さる人の子なり、さる人の弟子なり。 頭をば剃ったりとも、心をばよも剃らじとて、鎌倉殿より頻に申されければ、安判官資兼に仰て召捕って、関東へぞ下されける。駿河国住人岡辺権守泰綱に仰て、田越川にて斬られてんげり。」と記されています。桜山柳作の、この岡が六代御前の墓とされています。
平成二十一年三月
逗子市教育委員会

 

田越川沿いをさらに下ると海に出た!最初に出迎えてくれたのは太陽の季節の碑だった。

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太陽の季節の碑

太陽の季節は読んだことも映画を見たこともないけれど、春の逗子海岸は、マリンスポーツを楽しむ人、愛犬とともに波と戯れる人、などそれぞれがのんびりした時間を過ごしていて、ギラギラしたイメージはなかった。砂浜の小さな貝殻も美しい。

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逗子海岸の東の端に太陽の季節の碑があり、西の端に徳富蘆花の代表作である「不如帰」の碑がある。海中に立っている碑の写真を撮り忘れたので、近くの浪子不動の説明看板を載せておこう。読めるかしら。。

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この浪子不動が披露山への登山口(?)になっている。披露山頂上の標高は68.9mだそうだが、久しぶりに山道を登る身にはもっとありそうな気がした。ほら~ 山旅ロガーのGPS標高では100mだって。(たぶん、こちらが不正確なんだろうけど、実感に近かったので、、)披露山公園津波の際の避難場所にもなっているが、今の私の体力でギリギリ、体が不自由になったら登れないだろうなぁ…

 

披露山頂上から江の島が見えた。残念ながら白い富士は見えず。眼下は高級住宅街だ。

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披露山頂上から江の島を臨む

披露山を下り、すごいお屋敷が立ち並ぶ披露山庭園住宅地の中央を通って、次の景勝地「大崎公園」にいった。海に突き出した突端からまぁるい水平線を堪能することができた。葉山の花火などが楽しめる穴場だそうだ。

 

山を下りて小坪漁港へ向かう。途中の集落には一転、庶民の暮らしがあるような気がした。

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伊勢町の大井戸(殿の井)と小坪漁港のワカメ干し



漁港を後にして、小坪の名の付く住宅地の傾斜を上っていくと名越の切通しに出た。

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名越切通し

名越切通し

鎌倉時代に整備された「鎌倉七口(鎌倉に入るために開削された切通し)」のひとつ。鎌倉と三浦半島を結ぶ要路として、明治時代初めまで使われていた。最も狭い部分の幅は約0.9mだが、発掘調査によるとかつては3m近くあったが、地震で崖が崩れて狭まったことがわかっている。

 

ハイキングコースをえっさかほっさか登っていくと、途中に「まんだら堂やぐら群」というものがあった。公開されていない時期で、金網の隙間から写真だけ撮ってきたが、葬送遺構らしい。

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まんだら堂やぐら群

 

引き続き山道をくねくねと歩いていると、法性寺の墓所に出た。

舗装された道になったので、楽かと思いきや、傾斜がきつく、このお墓にお参りに来るのは大変だぁと思った。

 

GPS標高によると80mぐらい下って、山門に出た。扁額を持っているのは白いお猿さんだ。

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法性寺山門

法性寺(日蓮宗)
鎌倉時代中頃の建長六年(一二五四)、日蓮安房小湊から鎌倉に出て来て辻説法を開始した数年間は、大地震をはじめ、大火、飢饉、疫病流行などの災害続きでした。
日蓮法華経こそが人々を救うと説き、文応元年 (一二六〇)に「立正安国論」を著し、先の執権北条時頼に上呈しました。しかし、当時の仏教諸宗派が無力であるとして責めたことから、松葉ヶ谷の草庵が焼討ちされてしまいました。
山伝いにこの地に逃れてきた日蓮に白猿が食べ物を畠から運んでくれたという伝説のある岩窟が山上にあります。
法難を救った地として、弟子の日朗と朗慶の手で元亨元年(一三二 一)頃に当寺が創建されました。寺領全域が東京・池上本門寺、鎌倉・妙本寺の奥の院とされてい ます。

逗子市・自然の回廊プロジェクト

 

これでこのコースの見どころはおしまい。久しぶりにアップダウンのあるハイキングらしいハイキングだった。

 

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約12Km

武蔵野の自然と新選組ゆかりの地を歩く 2022/03/05

この日の駅からハイキングは武蔵境駅がスタート。

まずは駅南の杵築大社へ。

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杵築大社
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千本イチョウ富士塚

市天然記念物
杵築大社の千本イチョウ
昭和四十七年三月十六日指定 このイチョウは雌木で、主幹五本、支幹四十数本よりなり、主幹の樹高は約二五メートル、目通り幹囲二・五七メートルから一・二九メートル、枝張り一七メートル四方、根元周囲約四・ニメートルで樹勢すこぶる旺盛です。
現状からみて、昔、相当樹令のイチョウがあり、何らかの原因(落雷等)により地上部は枯死(約百五十年以上前)し、その根際より生じた支幹が成長して現在の主幹となったものと推定されます。多くの天然記念物は単幹老樹ですが、このような株立のイチョウはあまり類例をみません。
昭和四十七年三月三十一日建設 武蔵野市教育委員会

 

富士塚三多摩では最大のものとのこと

 

杵築大社を後にして、昔は一面の畑だったに違いない平地をひたすら歩く。

次は龍源寺。

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龍源寺 と 近藤勇の胸像

龍源寺には近藤勇の墓があるそうだ。入口の胸像は生誕100年を記念して地域の住民が建てたそう。

 

幕末・明治維新の歴史が好きな人は多いが、血で血を洗う抗争の時代でもあったわけで、想像すると心が塞ぐ。

今のウクライナ情勢を見聞きしても、どうして同じ人間同士で戦い殺しあわなければならないのかと思う。大きな暗い川のような運命に飲み込まれていく人々を、どうすることもできず呆然と見ている。

 

近藤勇墓所を後にして、足がぐっと重くなった。

 

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武蔵野の森公園(展望の丘)

ああ、飛行機だ。

以前に読んだ歴史の本で一番感動したのは、「人類が月面に降り立ったのは、ライト兄弟が初めて有人飛行をしてからわずか66年後のことでした」という一文だった。

驚くべきは人の力、その限りない可能性がどうか明るい方向に向かいますように。

 

丘の上からしばらくぼーっと飛行機を眺め、次に北に向かって野川公園に入った。

野川公園の自然観察園で春の息吹に触れる。

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ソシンロウバイサンシュユ
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セツブンソウとオオイヌノフグリ
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クリンソウザゼンソウ
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ヒメオドリコソウとアオイスミレ

寒い冬を耐え忍び、日が伸びれば忘れずに花を咲かす。けなげな植物たちに元気をもらって、再び北へ向かって歩き出す。

JR中央線を越えると玉川上水だ。もう少しするとウグイスが鳴いたり、カワセミが飛んだりするのだろう。

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玉川上水

落ち込んだり癒されたりの14.7Kmだった。

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「スポーツ」「伝統」文化のまち信濃町行脚 2022/02/27

ようやく春めいてきた日曜日、信濃町周辺を散歩した。

まずは、駅の南へ下って明治記念館の角を東へ。迎賓館へ向かう。

迎賓館正面は白い壁で囲われていた。工事中?

学習院初等科の脇を通っていったん新宿通りへ。そこからまた住宅街を歩く。

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たい焼きわかば

おお、こんなところに有名なたい焼き屋さんが…

一度いただきものを食したことがあるが、ずいぶん塩の効いたあんこだと思った。

 

次は浄土宗西念寺服部半蔵のお墓があった。

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服部半蔵の墓

新宿区指定史跡
服部半蔵の墓

所在地 新宿区若葉二丁目九番地
指定年月日 昭和五十九年七月六日
服部半蔵(一五四二~九六)は、本名を正成といい、徳川家康三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将である。
「鬼の半蔵」として知られ、元亀三年(一五七二)三方ヶ原の戦い天正十八年(一五九〇) 小田原攻めで功をあげ知行八千石を賜り、同年の家康の江戸入府後は、江戸城西門近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。 半蔵は、天正七年(一五七九) 家康の長男信康が切腹する際介錯役を命じられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。
文禄二年(一五九三)には家康から寺院を建立するよう内命をうけたが、慶長元年(一五九六)十一月、五十五歳で没した。 西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永十一年(一六三四) 江戸城の外堀拡張・新設の際現在地に移転したものである。

平成十七年二月
新宿区教育委員会

 

西念寺から短い坂道を下って次は須賀神社へ。

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須賀神社

神社へ上る石段は、映画「君の名は。」のラストで三葉と瀧が再会した場所だ。

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須賀神社への参詣道 階段下で輪になっているのは聖地巡りの人たちかな

 

四谷の総鎮守 須賀神社」 と三十六歌仙
須賀神社について〕
四谷の産土神(うぶすながみ) で、祭神は建速須佐能男命(たけはやすさのおのみこと) と宇迦能御魂命(うかのみたまのみこと) の二柱です。 かつては、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と稲荷社の二つの神社であったもので、江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、明治にはいり須賀神社と改められました。 稲荷天王合社のうち稲荷社の由来については、次の二説が伝えられています。
一つは、かつては麹町十一丁目清水谷にあり、 一ツ木村の鎮守であったものが、 同村にあった別当宝蔵院(神仏習合の時代、神社には別当寺があり、 そこの僧侶が社僧として神社の儀式に携わりました)が、寛永11年 (1634) に現在の須賀神社の場所に移ったのを機に、稲荷も移転してきたというものです。 もう一つは、稲荷社は、 現在の勝興寺 (須賀町八番地) 境内にあった椎の大木の根元に祀られており、宝蔵院が清水谷にある頃から稲荷社まで注連縄飾りの奉仕に来ていたため、寛永11年 (1634) に勝興寺が 移転してきた時、相談のうえ宝蔵院(現在の須賀神社)に遷座したという説です。
牛頭天王社のほうは、寛永18年 (1641) に、 神田明神境内の牛頭天王社を四谷のお仮屋横町付近に小祀を建て祀ったものだそうです。 ところがこの牛頭天王社に参詣人が多かったため、寛永21年(1644) 寺社奉行に願い出て、 同年6月18日に宝蔵院境内の稲荷社と合祀し、現在の稲荷天王合社となったものです。以来、稲荷は鮫河橋・権田原の、天王は四谷の鎮守として崇敬され、現在は四谷地区十八町会が氏子町となっています。


三十六歌仙絵・・・ 新宿区指定有形文化財 絵画〕
(昇殿拝観は許可制です。)
三十六歌仙絵は、平安時代中期の公卿藤原公任(ふじわらのきんとう) (966~1041) が、 過去および同時代の優れた歌人三十六名を選定したもので、 万葉歌人から柿本人麿・山部赤人大伴家持の三名、平安時代前期の 『古今集』『後撰集』頃の歌人から紀貫之在原業平 小野小町ら三十三名が選ばれています。 三十六歌仙絵は、それぞれの歌人肖像画に代表作一首を書きそえたもので、平安時代後期に出現した似絵(にせえ) という肖像画の影響をうけ、鎌倉時代初頭に成立し、江戸時代まで盛んに描かれました。須賀神社三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたものです。 縦55cm・横37cmの絹地に彩色したもので、現在は額装され社殿内に掲げられています。当時、画家として高名だった四谷大番町(大京町)に住む旗本大岡雲峰 (1764~1848) の絵と、和歌や 書画で人気を博した公卿千種有功(ちぐさありこと) (1797~1854) の書により、 天保7年(1836) に完成奉納されたもので、 四谷の総鎮守として信仰をあつめた須賀神社の隆盛を物語る文化財の一つです。

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三十六歌仙絵のレプリカ

三十六歌仙のうち、百人一首でおなじみの二首の写真を撮ってきた。

  • こひすてふわが名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか
  • しのぶれど色にいでにけりわが恋は 物や思ふと人のとふまで

 

次はお岩さんにかかわる寺社へ。

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於岩稲荷田宮神社

東京都指定旧跡
田宮稲荷神社跡
所在地 新宿区左門町一七 標 識 昭和六年一二月二日
指定 昭和三〇年三月二八日 
田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永 一三年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。
鶴谷南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政八年(一八二五)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは二百年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は明治一二年(一八七九)に火事で消失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居として管理されており、昭和六年(一九三一) に指定されました。戦後、昭和二七年(一九五二)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会

お言葉お守りを参拝記念にどうぞ、とあったので、一枚いただいてきた。

きれいな字で一枚一枚違う言葉がしたためてある。

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学ぶ道絶えることなくわが心育む

 

田宮神社の向かいには長照山陽運寺がある。こちらも「お岩さんのお寺」と言われているようだが??? カフェがあったりして若い女性に好まれそうな雰囲気だ。

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陽運寺の門と縁切り、縁結びの絵馬

絵馬は六四ぐらいで縁切りの願いが多い。

 

左門町から大通りへ出て、信濃町駅へ戻る。次は駅南側のスポーツの街へ。

絵画館前に行くと大学生の自転車レースが行われていた。

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明治神宮外苑大学クリテリウム

自転車のことを銀輪というが、その響きからは、いかにも春の日差しを反射させて走るさまが想像できて、もしかしたら春の季語かな?などと思ってしまう。(実際の競技用自転車はもう銀色ではないようですね。。)

 

この後は、野球場やラグビー場や国立競技場を遠巻きにして歩き、千駄ヶ谷鳩森八幡神社へ。

 

鳩森八幡宮にも富士塚がある。都内で最も古いものだそうだ。

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富士塚の案内板と鳩のおみくじ 

暖かくなったので、境内の河津桜が一気に開花したようだ。

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忙しく飛び回る蜜蜂とメジロ

 

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8.5Kmの春散歩でした。

早春の新宿、お社めぐり 2022.02.23

新宿にそんなに見どころがあるかしら…と思って歩き始めたが、神社だけでなく、富士塚や山手線内で一番高い山や、目を引くビルディングなど、見どころ満載の散歩になった。

 

スタートは新宿駅東口。伊勢丹の角を曲がって花園神社へ。社殿前の梅が真っ盛りだった。

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花園神社
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新宿区指定有形文化財 彫刻
花園神社の唐獅子像
所在地 新宿区新宿五丁目十七番三号
指定年月日 昭和五十九年十一月五日

文政四年(一八二一)に造立された雌雄一対の銅造の唐獅子像である。
内藤新宿の氏子たちにより奉納されたもので、台座には発願者・援助者・世話人等の名が刻まれている。

像高七十五センチ、台座高一三七センチ。彫工佐脇主馬の製作した原型により、鋳工村田整珉(初代)が鋳造したもので、注連縄が浮彫された台座は石工本橋吉平衛の手になるものである。
頭部は四つの部分(上頭部・顔・後頭部・たてがみ)に分けて鋳造し、身体も胴から後足、前足、尾の三つの部分をそれぞれ左右に分けて鋳造したものを接合して製作されている。
平成二十七年三月
新宿区教育委員会

 

 

新宿七丁目の交差点を左折して、次は稲荷鬼王神社へ。

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稲荷鬼王神社

歌舞伎町歓楽街のはずれに位置する神社だが、いろいろと盛りだくさんの御利益があるようだ。

このコロナ禍においては、九字きりによる疫病退散祈祷を行っているそうだ。

当社宮司家に代々伝わる、本来、四月の鎮花祭時のみに行う九字きりによる病魔退散祈祷は、 明治時代以降の神社神道では行わない作法であり、関東では珍しく少なくとも東京都内では当社のみが行っている古伝の祈祷作法の為、奇異に見えるかもしれません。 稲荷鬼王神社創建以来の宮司家大久保家に伝わる作法故、ご理解下さい。
尚、病魔退散祈祷はご参列できませんが社殿外からの見学は自由です。 撮影されてコロナの不安が解消されるなら社殿外からの撮影も構いません。

 

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鬼の水鉢 と 子供をしっかり抱えた狛犬

新宿区指定有形文化財 彫刻
鬼王神社の水鉢

所在地 新宿区歌舞伎町二丁目七番五号 指定年月日 昭和六十三年八月五日

文政年間(一八一八~一八二九)の頃制作され たもので、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式で、区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。
水鉢の左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる伝説を記した石碑があり、これによると、「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするのである夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保四年(一八三三)当社に寄進された。 台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残って いる。….....」とある。
この水鉢は、高さ一メートル余、安山岩でできている。

平成五年一月
東京都新宿区教育委員会

 

狛犬の説明は撮り忘れたが、親子の情愛を表す珍しい形だと思う。

 

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鳥居の上の恵比寿船 と 富士塚

写真の富士塚は五合目~頂上で、反対側に一合目~四合目があったようだが見逃してしまった。二つになった富士山の間を通る参道を通過することで富士山にこもってお参りするのと同じご利益を得られるのですって。

 

 

いろいろと霊力の強そうな神社を後にして、職安通りに出ると風変わりなビルが目についた。なんだ?あのタンク…

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最近、スマホは便利で、こうして写真を撮ったその場で画像検索できるのね。

「軍艦マンション」だって。 へぇー

GUNKAN東新宿ビル - Wikipedia

 

 

その次に見かけたのは小さな石碑だった。

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島崎藤村旧居跡の碑

島崎藤村旧居跡

新宿区歌舞伎町二丁目四番
 詩人・小説家の島崎藤村(一八七二~一九四三)は、馬籠 (長野県)の生まれ。本名を春樹といった。 明治学院を卒業後、明治二六年(一八九三) 『文学界』の創刊に参加。 明 治三〇年の『若菜集』にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。
明治三八年(一九〇五)四月二九日、小諸義塾を退職した藤村は家族とともに上京し、翌三九年十月二日に浅草区新片町に転居するまでここに住んだ。ここは当時、東京府南豊島郡西大久保四〇五番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居したのであった(実際の場所はこの説明板の西側に建つ「ノア新宿ビル」のところ)。
この頃から小説に転向した藤村は、ここで長篇社会小説『破戒』を完成し、作家として名声を不動のものとした。しかし一方で、転居早々三女を亡くし、続いて次女・長 女も病死するなど、藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもあった。

平成十五年三日
 新宿区教育委員会

おぉ、藤村さんは私のおじいさんの友達だ。(信州つながり)こんなところに住んでおられたのね。

 

職安通りをさらに東へ進むと、今度は新しくて目立つ建物が現れた。

窓ガラスがランダムに角度をつけてはまっていてお掃除が大変だろうなぁ…

これはこれで、反射を防ぐとか、意味があるらしい。

敷地内のタイルにところどころ古地図が描かれているのが面白かった。

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新宿イーストサイドビル

 

このモダンなビルのほど近く、西向天神社がある。大宰府に向かって社殿が西向きに作られているために「西向天神社」と呼ばれているそうだ。ここにも富士塚があった。

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西向天神社の鳥居 と 富士塚(遠くに新宿新都心が見える)

境内の奥まったところに紅皿のお墓といわれるものがあった。

紅皿とは、太田道灌が鷹狩に出た折雨に降られて、近くの農家で蓑を借りようとしたとき、山吹の枝を差し出したという少女。

それが「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに無きぞ悲しき」の古歌を引用していると知らなかった道灌は我が身を恥じて、和歌の勉強をするようになったんだって。

 

そうそう、藤圭子の「新宿の女」の歌碑もあった。どういうつながりなんだか…

 

西向天神社を後にして、再び職安通りに戻る。次は厳島神社抜弁天

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抜弁天

参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民の信仰を集めたそう。綱吉将軍の時代にはこの付近に2万5千坪の犬小屋が設けられていたとのこと。

 

さて、そこから進路を北に向け、しばらく歩くと突き当たったところは、箱根山だ。

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戸山公園 箱根山

ちゃんと登山口の標識がある。標高44.6m 山手線内の最高峰だそうだ。5分ほどの登山で登頂(笑)

 

次は諏訪神社(おすわ様)を目指す。

途中でなぜか道に迷い、google先生に道案内を頼んだところ、民家の間の50㎝ぐらいの隙間を通って、諏訪神社の裏へ連れ出してくれた。

 

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諏訪神社の社殿 と 霊泉

社殿は、破風がいくつも重なっていて珍しいなと思ったが、昭和55年の落成だそうだ。こういう建物としては新しいほうだろうか。

諸病に霊験があるという霊水がちょろちょろと流れていた。

 

戸山公園を通り抜け、新大久保駅をくぐるとすぐに皆中稲荷という小さな神社がある。

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皆中稲荷神社

新宿区登録無形民俗文化財
江戸幕府 鉄炮組百人隊行列(出陣の儀)
所在地 新宿区百人町一丁目十一番十六号 登録年月日 平成十四年二月一日 

皆中稲荷神社の例大祭で隔年(平成は奇数年)に開催される行事で、江戸時代に現在の百人町一帯に屋敷を与えられていた幕府鉄砲組百人隊が、神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもの。 当日は、甲冑に身を固めた武将が百人町周辺を隊列行進し、 火縄銃を携えた鉄砲隊が、数ヶ所で古式にのっとり試射を行う。
鉄砲組は四組あり(百人町に 住んだのは二十五騎組、別称大久保組)、通常は交替で江戸城大手三之門を警備した。また、将軍の寛永寺増上寺日光東照宮参詣には護衛をした。
皆中稲荷神社は、鉄砲組から信仰された。ある隊士が稲荷の霊夢により百発百中の腕前に上達したことが起源という。皆中は「みなあたる」の意味がある。

平成十五年三月
新宿区教育委員会

 

皆中稲荷神社の隣に小さな交番があって、室内で数人のおまわりさんが頭を垂れていた。不思議に思ってちょっとのぞき込むと、神主さんが祝詞をあげている。なにかあったのかしら…

先に進もう。

 

大久保駅もくぐり抜け、西新宿方面へ行く。

 

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成子天神社 と 富士塚

由緒
祭神菅原道真
千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。 
このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹々が茂る清らかな神域が広がっておりました。
平安時代の延喜三年(九〇三年)、九州の太宰府菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、 洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に 持ち帰りました。
そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立され たのです。その後、徳川三代将軍家光公より春日局に柏木鳴子 の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を 造営。明治二十七年成子神社と改め昭和三年成子天神社と改称。その後戦災消失、昭和四十一年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。

新宿区登録文化財 史跡
成子天神社の富士塚 
所在地 新宿区西新宿八丁目十四番十号
登録年月日 平成二年六月一日
大正九年(一九二〇)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かかれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大 規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。
富士塚は、江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。

成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸藤成子講が奉祀していたもので、最盛期には約二〇〇名の講員がいましたが、現在は活動していません。

平成二十六年十二月
新宿区教育委員会

 

この後、駅からハイキングのコースは新宿中央公園方面へと続くのだが、またまた道を間違えて、新宿駅に出てしまったので、ここでおしまい。

約11Kmの道のりでした。

 

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