早春の新宿、お社めぐり 2022.02.23

新宿にそんなに見どころがあるかしら…と思って歩き始めたが、神社だけでなく、富士塚や山手線内で一番高い山や、目を引くビルディングなど、見どころ満載の散歩になった。

 

スタートは新宿駅東口。伊勢丹の角を曲がって花園神社へ。社殿前の梅が真っ盛りだった。

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花園神社
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新宿区指定有形文化財 彫刻
花園神社の唐獅子像
所在地 新宿区新宿五丁目十七番三号
指定年月日 昭和五十九年十一月五日

文政四年(一八二一)に造立された雌雄一対の銅造の唐獅子像である。
内藤新宿の氏子たちにより奉納されたもので、台座には発願者・援助者・世話人等の名が刻まれている。

像高七十五センチ、台座高一三七センチ。彫工佐脇主馬の製作した原型により、鋳工村田整珉(初代)が鋳造したもので、注連縄が浮彫された台座は石工本橋吉平衛の手になるものである。
頭部は四つの部分(上頭部・顔・後頭部・たてがみ)に分けて鋳造し、身体も胴から後足、前足、尾の三つの部分をそれぞれ左右に分けて鋳造したものを接合して製作されている。
平成二十七年三月
新宿区教育委員会

 

 

新宿七丁目の交差点を左折して、次は稲荷鬼王神社へ。

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稲荷鬼王神社

歌舞伎町歓楽街のはずれに位置する神社だが、いろいろと盛りだくさんの御利益があるようだ。

このコロナ禍においては、九字きりによる疫病退散祈祷を行っているそうだ。

当社宮司家に代々伝わる、本来、四月の鎮花祭時のみに行う九字きりによる病魔退散祈祷は、 明治時代以降の神社神道では行わない作法であり、関東では珍しく少なくとも東京都内では当社のみが行っている古伝の祈祷作法の為、奇異に見えるかもしれません。 稲荷鬼王神社創建以来の宮司家大久保家に伝わる作法故、ご理解下さい。
尚、病魔退散祈祷はご参列できませんが社殿外からの見学は自由です。 撮影されてコロナの不安が解消されるなら社殿外からの撮影も構いません。

 

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鬼の水鉢 と 子供をしっかり抱えた狛犬

新宿区指定有形文化財 彫刻
鬼王神社の水鉢

所在地 新宿区歌舞伎町二丁目七番五号 指定年月日 昭和六十三年八月五日

文政年間(一八一八~一八二九)の頃制作され たもので、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式で、区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。
水鉢の左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる伝説を記した石碑があり、これによると、「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするのである夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保四年(一八三三)当社に寄進された。 台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残って いる。….....」とある。
この水鉢は、高さ一メートル余、安山岩でできている。

平成五年一月
東京都新宿区教育委員会

 

狛犬の説明は撮り忘れたが、親子の情愛を表す珍しい形だと思う。

 

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鳥居の上の恵比寿船 と 富士塚

写真の富士塚は五合目~頂上で、反対側に一合目~四合目があったようだが見逃してしまった。二つになった富士山の間を通る参道を通過することで富士山にこもってお参りするのと同じご利益を得られるのですって。

 

 

いろいろと霊力の強そうな神社を後にして、職安通りに出ると風変わりなビルが目についた。なんだ?あのタンク…

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最近、スマホは便利で、こうして写真を撮ったその場で画像検索できるのね。

「軍艦マンション」だって。 へぇー

GUNKAN東新宿ビル - Wikipedia

 

 

その次に見かけたのは小さな石碑だった。

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島崎藤村旧居跡の碑

島崎藤村旧居跡

新宿区歌舞伎町二丁目四番
 詩人・小説家の島崎藤村(一八七二~一九四三)は、馬籠 (長野県)の生まれ。本名を春樹といった。 明治学院を卒業後、明治二六年(一八九三) 『文学界』の創刊に参加。 明 治三〇年の『若菜集』にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。
明治三八年(一九〇五)四月二九日、小諸義塾を退職した藤村は家族とともに上京し、翌三九年十月二日に浅草区新片町に転居するまでここに住んだ。ここは当時、東京府南豊島郡西大久保四〇五番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居したのであった(実際の場所はこの説明板の西側に建つ「ノア新宿ビル」のところ)。
この頃から小説に転向した藤村は、ここで長篇社会小説『破戒』を完成し、作家として名声を不動のものとした。しかし一方で、転居早々三女を亡くし、続いて次女・長 女も病死するなど、藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもあった。

平成十五年三日
 新宿区教育委員会

おぉ、藤村さんは私のおじいさんの友達だ。(信州つながり)こんなところに住んでおられたのね。

 

職安通りをさらに東へ進むと、今度は新しくて目立つ建物が現れた。

窓ガラスがランダムに角度をつけてはまっていてお掃除が大変だろうなぁ…

これはこれで、反射を防ぐとか、意味があるらしい。

敷地内のタイルにところどころ古地図が描かれているのが面白かった。

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新宿イーストサイドビル

 

このモダンなビルのほど近く、西向天神社がある。大宰府に向かって社殿が西向きに作られているために「西向天神社」と呼ばれているそうだ。ここにも富士塚があった。

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西向天神社の鳥居 と 富士塚(遠くに新宿新都心が見える)

境内の奥まったところに紅皿のお墓といわれるものがあった。

紅皿とは、太田道灌が鷹狩に出た折雨に降られて、近くの農家で蓑を借りようとしたとき、山吹の枝を差し出したという少女。

それが「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに無きぞ悲しき」の古歌を引用していると知らなかった道灌は我が身を恥じて、和歌の勉強をするようになったんだって。

 

そうそう、藤圭子の「新宿の女」の歌碑もあった。どういうつながりなんだか…

 

西向天神社を後にして、再び職安通りに戻る。次は厳島神社抜弁天

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抜弁天

参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民の信仰を集めたそう。綱吉将軍の時代にはこの付近に2万5千坪の犬小屋が設けられていたとのこと。

 

さて、そこから進路を北に向け、しばらく歩くと突き当たったところは、箱根山だ。

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戸山公園 箱根山

ちゃんと登山口の標識がある。標高44.6m 山手線内の最高峰だそうだ。5分ほどの登山で登頂(笑)

 

次は諏訪神社(おすわ様)を目指す。

途中でなぜか道に迷い、google先生に道案内を頼んだところ、民家の間の50㎝ぐらいの隙間を通って、諏訪神社の裏へ連れ出してくれた。

 

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諏訪神社の社殿 と 霊泉

社殿は、破風がいくつも重なっていて珍しいなと思ったが、昭和55年の落成だそうだ。こういう建物としては新しいほうだろうか。

諸病に霊験があるという霊水がちょろちょろと流れていた。

 

戸山公園を通り抜け、新大久保駅をくぐるとすぐに皆中稲荷という小さな神社がある。

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皆中稲荷神社

新宿区登録無形民俗文化財
江戸幕府 鉄炮組百人隊行列(出陣の儀)
所在地 新宿区百人町一丁目十一番十六号 登録年月日 平成十四年二月一日 

皆中稲荷神社の例大祭で隔年(平成は奇数年)に開催される行事で、江戸時代に現在の百人町一帯に屋敷を与えられていた幕府鉄砲組百人隊が、神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもの。 当日は、甲冑に身を固めた武将が百人町周辺を隊列行進し、 火縄銃を携えた鉄砲隊が、数ヶ所で古式にのっとり試射を行う。
鉄砲組は四組あり(百人町に 住んだのは二十五騎組、別称大久保組)、通常は交替で江戸城大手三之門を警備した。また、将軍の寛永寺増上寺日光東照宮参詣には護衛をした。
皆中稲荷神社は、鉄砲組から信仰された。ある隊士が稲荷の霊夢により百発百中の腕前に上達したことが起源という。皆中は「みなあたる」の意味がある。

平成十五年三月
新宿区教育委員会

 

皆中稲荷神社の隣に小さな交番があって、室内で数人のおまわりさんが頭を垂れていた。不思議に思ってちょっとのぞき込むと、神主さんが祝詞をあげている。なにかあったのかしら…

先に進もう。

 

大久保駅もくぐり抜け、西新宿方面へ行く。

 

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成子天神社 と 富士塚

由緒
祭神菅原道真
千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。 
このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹々が茂る清らかな神域が広がっておりました。
平安時代の延喜三年(九〇三年)、九州の太宰府菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、 洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に 持ち帰りました。
そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立され たのです。その後、徳川三代将軍家光公より春日局に柏木鳴子 の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を 造営。明治二十七年成子神社と改め昭和三年成子天神社と改称。その後戦災消失、昭和四十一年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。

新宿区登録文化財 史跡
成子天神社の富士塚 
所在地 新宿区西新宿八丁目十四番十号
登録年月日 平成二年六月一日
大正九年(一九二〇)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かかれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大 規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。
富士塚は、江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。

成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸藤成子講が奉祀していたもので、最盛期には約二〇〇名の講員がいましたが、現在は活動していません。

平成二十六年十二月
新宿区教育委員会

 

この後、駅からハイキングのコースは新宿中央公園方面へと続くのだが、またまた道を間違えて、新宿駅に出てしまったので、ここでおしまい。

約11Kmの道のりでした。

 

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