犬吠埼灯台150周年記念灯台と季節の花をめぐろう 2024/04/29

GW最初は「ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ」とうたわれた地に行ってみることにした。待っていた特急列車は新型車両?内部は新車のにおいがした。

E259

約1時間半かけて銚子に到着!まずはお目当ての藤の花を見に行く。

妙福寺

妙見様と臥龍の藤

妙福寺は、1314年(正和3)に日蓮聖人の直弟子日高上人が開基し、日祐上人によって開創されました。開創当初は、真言宗の「槃若寺」として匝瑳市山崎地区にありましたが、当時の住職であった円学が日祐上人の偉 大さに触れて改宗し、1715年(正徳5)当地に移転、寺号を海上山妙福寺としました。

境内に聖徳太子作と伝えられ、源満仲が深く尊信し代々源家に伝えられてきた妙見菩薩が祀られていることから、「妙見様」と呼ばれ、親しまれています。

境内には、江戸時代紀州から移住してきた人々の遺徳を讃えるために、1903年(明治36)に建立された「紀國人移住碑」があり、毎年5月に慰霊祭が執り行われます。

また、平安時代中期に京都から移植されたと伝わる「臥龍の藤」があり、開花の見ごろは4月下旬から5月上 旬です。

臥龍の藤

この藤は「野田藤」と呼ばれる種類のもので、当山がこの地に法城を築いた頃、平山家(南朝方の忠臣)等の力添えにより、京都御所内に植えられておったこの藤を、京都から川下りで大阪湾に運び、船便で銚子へ廻航して移植されたものです。樹齢は、樹医山野忠彦氏によれば、やはり七百五十有余年を閲する古木と断定しておられます。毎年五月になると、長さ五尺余の見事な、「紫の花すだれ」をみせてくれます。根元が龍のねている姿に似ているところから、「臥龍の藤」と呼ばれ、訪れる方々から親しまれております。

 

境内にはこのほかにもいくつもの藤棚があった。白い藤はもう終わりに近かった。

臥龍の藤に間に合うかと気をもんだが、ちょうど美しい盛りを見ることができてよかった。

妙福寺を出ようとしたところに稲荷神社があった。霊験の説明が面白かったのでパチリ。

妙福稲荷堂

福聚殿(妙福稲荷堂)

この堂宇には、正一位妙福稲荷大明神が祀られて おります。 俗に「薄墨の院宣贈輿」と言われており、延享二年(一七四五)桜町上皇より、正一位の称号がおくられた極めて尊い御尊像であります。 元参議院副議長の赤桐操氏も、祖先累代の崇敬信仰を伝承され、今日尚子々孫々に至る迄、不変の信仰を護持されておられます。 特に火伏のお稲荷様として内外に広く知られてお り、明治三十年三月三十日、当山客殿よりの出火の折、隣接する祖師堂の屋根高くに、不思議にもそのお姿が現れ、これを消火した為、類焼の厄を免れたとの話は、今尚語り草として伝えられており、 又昭和二十年三月十日の米軍による大空襲の際にも、祖師堂に五発の焼夷弾が命中したのですが、これ又不思議にも全部不発に終り、当時駐留の護沢部隊の兵士がこれを処理いたしました。 そしてこの広い当山境域と周辺町内だけが全く事なきを得た事も、まさにその霊験の、あらたかさを示すものとして、語りつがれております。

濱口梧陵紀徳碑

妙福寺のほど近くに「濱口梧陵紀徳碑」というのがあった。

濱口梧陵は和歌山県有田郡広川町の出身でヤマサ醤油株式会社の7代目社長です。

梧陵は実業家としてだけでなく防災・防疫の分野でも優れた業績を残しました。

中でも安政元年(1854年)の安政南海地震の際に、津波から村人を救うために稲むらに火を放ち高台への避難を誘導し多くの命を救った逸話は、「稲むらの火」として小学校の教科書に取り上げられ、地震が発生した11月5日は国連の「世界津波の日」に制定されています。

また、安政5年(1858年)には、江戸でコレラが大流行した際に銚子から医師を派遣し防疫を学ばせたり、焼失した江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)の再建のために大金を寄付するなどの支援を尽くしました。

紀徳碑は明治30年(1897年)に有志の手によって建立されましたが、碑文は梧陵と親交のあった勝海舟が彼の死を悼んで捧げたものです。

 

次に飯沼観音へ向かった。

その途中、古い建物に目を引かれた。

旧公正會舘

旧公正會館

旧公正會館は、1926年(大正15)4月10日竣工、同年4月12日開館の社会教育施設です。ヤマサ醤油株式会社10代目当主濱口儀兵衛(濱口梧洞1874-1962)が中心となり、社会教育事業の経営を目的に設立した財団法人公正會によって建設されました。夜間中学公正學院と公正圖書館が設置され、講堂では各種社会教育活動が行われました。

1945年(昭和20)、銚子市街地は空襲を受け、甚大な被害が出ましたが、焼失を免れた公正會舘は臨時病院として利用されました。現在この建物は、市内に現存するRC造(鉄筋コンクリート造)建築では最古のものと考えられています。

1948年(昭和23)に財団法人公正會が解散すると、全施設が銚子市へと寄贈され、同年4月に銚子市公正館と改称、翌年9月22日に銚子市公正市民館及び公正図書館として開館しました。

建物の外観は、車寄せ、柱飾り、階段、室入口庇、正面パラペット飾は人造石洗い出し、その他はモルタル刷毛引き仕上げで、簡素なセセッション(ウィーン分離派) 風のデザインでまとめられています。古典様式の名残を落とし込んだモダニズムデザインは、建築当時の時代性や流行を感じ取ることができます。

おお、ここにも濱口さんが… 梧陵さんはヤマサ醤油の7代目社長、梧洞さんは10代目社長だそうだ。

濱口梧洞の銅像

 

さぁ、飯沼観音に着いた。

飯沼観音

飯沼観音・圓福寺は、坂東三十三カ所観音霊場二十七番札所で、本尊は十一面観世音菩薩が奉安されています。銚子の繁華街や商店街は、飯沼観音を中心に形成され、門前町として繁栄してきました。平成21年には、新たに五重塔が建立されました。

また、飯沼観音境内には、明治5年にオランダ人技師リンドにより設置された「飯沼 水準原標石」があり、これは日本における河川工事の水準基準面となるもので、日本最初の水準原標です。

本堂の前に大仏様。その手につながる紐を両手にいただいて合掌し、そこに書いてある通りに「オンアミリタテイゼイカラウン」と三回唱えてきた。ご利益あるかしら…

本堂前に積み上げてある一斗缶はヤマサ醤油の奉納品、大仏様の陰になって見えないが左側にも同じように積み上げられた一斗缶があってそちらはヒゲタ醤油の奉納品だった。

飯沼水準原標石

飯沼観音を参拝した後は銚子電鉄に乗ってみよう!

本銚子駅はタレントのヒロミさんが番組の企画でリフォームしたのだそうだ。

銚子電鉄本銚子駅

あまりのオンボロさ加減に、電車ってレールさえあれば走れるんだなぁ… なんて思ったりして。

若いかわいい車掌さんが車内を行ったり来たりして切符を売り、駅に着くと今度はホームに飛び降りて降車した人たちから切符を回収し、獅子奮迅の活躍ぶりだった。

 

君ヶ浜駅で降りて、次は海を目指す。

防風林を抜けて海へ

帽子を飛ばされそうになる海風、どど~ん、どど~んと波の音。

君ヶ浜から犬吠埼灯台を望む

海岸沿いを歩いて犬吠埼灯台にも登った。99段のらせん階段は狭くて、おなかの出たお父さんとすれ違うのはまことに困難だった。(笑)

灯台の上からの眺め 足がすくむ

遠くの船を導く灯台の明かりは、どんなに強いのかと思っていたが、意外に小さな電球なのにはびっくりした。

中の電球が見えるかな

 

犬吠埼灯台が建っている岬は、恐竜が生きていた時代(約1億2000万年前)の地層で、国指定天然記念物や日本の地質100選にもなっているそう。

恐竜の足跡かな?

強風に耐えて咲く海辺のお花たちも美しかった。

ハマヒルガオ ハマエンドウ ハマダイコン
シャリンバイ トベラ ヤマグワ

このあと犬吠埼駅を越えて「地球の丸く見える丘展望館」に向かう。その途中に万願寺というお寺があった。

万願寺

境内に足を踏み入れると、ミホトケワンダーランドといった雰囲気だ。こんな看板もあった。

一億円!

う~む、人々のためならむしろ相続税がよいのでは?

あらためて濱口家の皆さんの遺徳がしのばれるなぁ

 

さて、愛宕山を登って「地球の丸く見える丘展望館」に到着。ちょっと時間が押してきたのでそそくさと降りる。降りたところに渡海神社はあった。

渡海神社

郷土の人々の信仰を集めている渡海神社の森は、学術上貴重な極相林 (きょくそうりん) となっています。極相林とは松林等が次第に枯れ、その後にシイ、タブ、ツバキなどが 発芽し成長して、林の様相が陽樹林から陰樹林と変わってしまった状態をいいます。 渡海神社の極相林は、6,000㎡におよび、典型的な暖帯性常緑広葉樹林で、樹種は数 十種におよびます。千葉県の天然記念物 (昭和34年4月24日指定)です。

鬱蒼とした森の中の古色蒼然とした神社、不思議世界に迷い込んでしまいそうだった。

ここから屏風ヶ浦に行きたかったが、帰りの電車に間に合う自信がなかったので、断念。残念!南に下って、屏風ヶ浦の始まりの地層(犬岩・千騎ケ岩)を見に行くことにした。

千騎ケ岩

千騎ヶ岩は、高さ約18m、周囲約400mの巨大な岩体で、かつては島でしたが、現在は堤防ができ簡単に見学することができます。江戸時代の地誌「利根川図志」には仙ヶ岩屋として「天狗が住むといわれているため渡る人が少ない」と紹介されています。

千騎ケ岩には数メートルの高さに大きな洞穴があります。これは海の波によって削られた穴で、よく見ると 砂岩より侵食されやすい泥岩の部分が削れて大きな穴が空いています。この穴は現在より海面の高い時期(7000-6000年前)に形成されたと考えられています。その後、海面が下がり、加えて銚子自体が隆起したために、現在、このような高さに穴があるのです。

犬岩

犬岩は亀裂が多く入り、風化・侵食によってまるで耳を立てた犬のように見える岩体です。愛宕山(高神愛宕山)、 千騎ヶ岩と同じ、砂岩・泥岩からなる2億年前ごろにできた関東平野最古の地層になります。

犬岩のある場所は「犬若岬」と呼ばれており、古く硬い地層が顔を出しています。犬岩もかつては犬若岬とひと続きであったと考えられます。さらに犬若岬自体も古くは島であり、それが砂の堆積により陸地とつながった陸繋島と呼ばれる地形です。

犬若岬は高台になっており、その崖を観察すると犬岩と同じ硬い地層のすぐ上に、小石(軽石)がたくさん入った柔らかい地層を観察できます。軽石のたくさん入った地層は屏風ヶ浦と同じ地層(約310万年前の地層)で、 ここが屏風ヶ浦のはじまりになります。犬岩の地層と屏風ヶ浦の地層は接していますが、2つの地層の間には約2億年の堆積の間隔があります。このような地層の関係を「不整合」と呼びます。

銚子には「義経伝説」が多く残されています。「犬岩」には源頼朝に追われた源義経が奥州(現在の東北地方)に船で逃れる際、銚子の海岸に残された愛犬「若丸」が主人の義経を慕って七日七晩鳴き続けて岩になったという伝説があります。 「千騎ケ岩」には義経が千騎の兵をもって立てこもったという伝説があります。しかし、実際は義経が銚子から奥州に渡ったという話の根拠はないといわれています。

銚子ジオパークはなかなか興味深かった。もう一度ゆっくり歩いてみたいと思った。

最後は外川の集落を通ってまた銚子電鉄に乗り、銚子駅へ向かう。

外川の集落

歩いたのは10Kmぐらいか…

 

帰りの電車もまたE295でのんびりと。

藤の花から始まって、仏様と手をつないだり、オンボロ電車に乗ったり、太古の地球に思いをはせたり、見どころいっぱいの旅だった。

お土産いろいろ