菜の花ウォッチング2023~吾妻山公園からの絶景と早咲き菜の花+オリーブ農園を歩く~ 2023/01/09

成人の日に二宮の吾妻山公園に行った。ここに行くのはたしか2度目。

たった136mの標高ながら、けっこうきつい。けれど登り切れば素晴らしい眺望だ。

仲良しファミリー

富士山を撮っているふりしてまたこっそり撮ってしまった。。

今年の目標は引っ込み思案を克服し「撮ってもいいですか?」と一歩近づいて声をかけられるようになること、だな。

海もきらめく

6万株と言われる菜の花や咲き始めたすいせんを楽しみながら、頂上から少し下ると吾妻神社がある。

吾妻神社

吾妻神社

由緒記

 吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まると云う。 弟橘媛命を祭神とし日本武尊を配する。日本武尊景行天皇の第三皇子であり、天皇にそむく部族を征伐するため東北におもむく途中、三浦半島走水から海路上総に渡るとき暴風突如に起こり、命は夫にかわり海神の怒りを鎮めるため夫の武運を祈り、別れに臨んで往時を回想され

 「サネサシ相武ノ小野ニ燃ユル火ノ 

   ホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と 

海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。 その七日後に命の御櫛が海辺に流れつき埋めて御陵を造り、この地を埋沢といい神社前下一帯を梅沢という。この海岸に命の小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と呼んでいる。また日本武尊は東北戦が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海をながめ、「ああ吾が妻」と嘆かれたと云う。 弟橘媛命の御神像は木彫りの千手観音で、既に千数百年星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に安置されている。 吾妻神社は縁結びの神」として知られ例祭日は

例大祭 一月第三日曜日 

例祭 八月十五日

埋沢が梅沢に転じたこと、袖ケ浦海岸や吾妻の名に悲しいロマンスが秘められていたのね。

 

さて、山を下りて西の川勾神社へ向かう。

川勾神社山門

川勾神社の手前には小さなお地蔵さんがお祀りされていた。

川勾切通し・袖切地蔵尊の由来

地歲尊緣日 每月二十四日

 此の川勾の切通しは、江戸時代川勾神社に参詣の旅人の往来安全と、農作業等生活の必要から、川勾の老若男女総出で、大変な苦労をして造り上げた切通しの道路です。昭和四十年頃までは、道幅狭く勾配も今よりきつい樹木が生い茂った切通しでした。それでも山登りの道より便利であったことでしょう。

 川勾の皆さんは、その完成を喜び、人々の往来の安全を願い、この切通しにも袖切地蔵尊を建立されたのです。

 江戸時代全国各地で路傍の守護神として、袖切地蔵尊が造られ、今も袖切坂などの名称が各地に残っています。

当時の旅人は、東海道の茶屋の川勾神社一の鳥居(現在は左右の銀杏と鳥居はありません)で先ず拝礼、茶屋の薬師堂、薬師如来にも参拝して一路、川勾神社をめざして、疲れる足をはげまし歩いてきました。

 川勾神社を目前して、此の切通しは当時今より勾配もきつく道幅も狭く、デコボコの道でありました。疲れから転ぶ人もあったが、怪我もなく着物の袖が切れただけで良かったと、感謝とお礼の気持ちで袖を切って此の袖切地蔵尊にお供えしたそうです。 

 川勾には今でも糀屋さん、下駄屋さん、凧屋さん、綿屋さんなどの屋号が残っていて川勾神社への往来が賑わっていたことを物語っています。昭和四十年頃までは、八月の地蔵尊の縁日に、此の道路に筵(ムシロ)を敷いて地蔵講の皆さんが集い、お念仏をお唱えしてきました。

※この度のお堂再建に際し袖切地蔵尊礎石の刻字が判明しました。 

◎右に・寛政三年辛亥三月廿四日 (一七九一年)

◎正面・講中 十八人(当時の川匂の戸数)

◎左に・無量山 西光寺 恵海代(筆者十三世住職)

 

平成二十九年十月吉日袖切地蔵尊堂再建の砌記之

 

川勾神社でお参りをして、今度は北へ向かう。

鶴巻田横穴墓群

洞穴の天井ー貝がいっぱい

二宮の地質には、青灰色の泥層で、火山の風化によって生じた火山灰や軽石、また、貝化石を多く含む二宮層があります。古墳文化期に、ほかの地域では古墳が多く作られましたが、二宮では二宮層の丘陵の斜面に横穴を削って埋葬する横穴墓が盛んに造営されました。

 

現在は、この横穴をワインの保管庫として利用しているそうだ。

 

さらに北へ向かい、柑橘類やオリーブの畑のある丘陵地帯を歩く。途中眼下を走る新幹線を眺めながら一休み。

 

どこかで湘南ゴールドを買えないかな…ときょろきょろしながら二宮駅に戻ったが、出会えなかった。

まだ時期が早かったのかもしれない。

 

10.3Km