歩いて感じる、熱海の変化~レトロとモダンが織り交ざる街~ 2023/02/01

珍しく平日のお休みなので今日は熱海だ!

 

まずは來宮神社を目指すが、その途中に野中の湯というのがあった。

野中の湯

野中の湯

野中山のふもとの、このあたりを野中といいます。 この辺一帯は、 泥の中に湯がブクブク噴いて、 杖で突くと湧き出したといわれてい ます。 また、このあたりの土は丹 (赤色の土)のようで、 壁を塗る材料にしました。 江戸時代までは、この「野中の湯」 は湧き出るところが浅かったので、あまり入浴 には利用されなかったようで、 そのため、 湯をためる湯桝を設けなかったといわれて います。

源泉所有 「中銀ライフケア咲見」

階段の上は老人ホームのようだ。いいなぁ…温泉付き

 

藤森稲荷神社

藤森稲荷

祭神 稲倉魂命

神徳 藤森稲荷の大神は、衣食住の祖神であって農工商を守護しまつるが故に商売繁昌の神として、また延命長寿、厄除の神として崇敬されている

例祭 二月初午・九月初午

由緒

一、古記に依れば徳川家康は慶長二 年(一五九七年)同九年に熱海を訪れ入湯し、更に三代将軍家光は寛永三年、御殿を造営された 

その時、御殿の鬼門除として祀られたのが当神社です

一、大正二年、今上天皇が皇太子の御時金五百疋を奉幣されました

一、本社は京都深草の藤森神社であって往古の勅祭社であり、皇室の祈頼所でもあった

神領二千五百石を賜り秀吉、家康が神饌を寄進された名社である此のお社から当社は往古分祀された由緒深い神社であります

崖にへばりついているような小さなお社だったけれどね。

さあ、次はいよいよ來宮神社。大楠にパワーをいただいてきましょう。

御神木の大楠

来宮神社の由来

御祭神 大己貴命(商売繁盛・縁結び・温泉の神)

    五十猛命(樹木の神)

    日本武尊(決断の神)

社伝によるとおよそ三千有余年前大己貴命(大国主命)が国を治めるため、遠い西の国 (現在の島根県)より諸神を率いて海を渡り伊豆の国のこの地に(現在の熱海の海岸)に上陸されて此の地方を治めになり、ここは温泉に恵まれ気候風土よく、その上諸物資の豊かな所なので、非常にお喜びになり、ここに居を定められ、当神社が其の跡と伝えられている。 その後第十二代景行天皇の御代に御東征になられた日本武尊をおまつりし、第四十三代元明天皇の御代に(約千三百年前・和銅三年)五十猛命をお祀りしたと伝えられている。

大楠の由来

大昔の大楠を御神体として、よろずの人が信仰していたもので、いわゆるひもろぎ神社で あった。樹齢は二千年以上と謂われております。古くからそのまわりを一周廻る毎に 一年間生き延びると伝えられ、廻った人は区者いらずといい、一名不老の楠とも呼ばれている。此の大楠の由来は宮地直一・加藤玄智両博士の著書にも明かである。 昭和八年二月二十八日に文部省より国定の天然記念物に指定された。

願事の由来

一、縁結びの神 縁結びの神として古くから知られ今も遠近の人より良縁の幸福のご利益があるので、信仰が厚い。

一、商売繁盛・宅地造成・温泉守護の神 昔から商売繁盛・宅地造成・温泉守護の神として信仰が厚く、御家繁盛の為ここを詣でる人の絶え間がない 

一、酒断ちの神 古くから酒断ちの神として近くは関東、遠くは関西に至る迄 大神の御神徳が拡まり、酒の為家庭を破壊し病に悩み身を滅ぼさんとする人は、期間を定めて酒を絶ち、大神の御利益により数多くの人が救われている。その他諸々の願事を大神にすがり、大願成就して日夜詣でる人は絶え間がない。

平成十四年一月吉日 別表社 来宮神社 牧野鳳仙謹書

 

来宮神社を後にして海に向かって坂道を下っている途中「双柿舎」の看板があった。

あいにく開館日ではなく中には入れないようだ。

早稲田大学 「双柿舎」 ご案内

双柿舎は坪内逍遙の別荘として建てられました。 逍遙は、 早稲田大学 創立の功労者、文学部の開設者であると共に、明治・大正・昭和の三代 にわたる、文壇・劇壇の偉大な開拓者であり指導者でもありました。 文学では 「小説神髄」 「当世書生気質」を著わして、わが国の近代小説の 端緒をつくり、演劇では 「桐一葉」 「沓手鳥弧城落月」 等をもって歌舞伎 に新風を吹きこみ、 あるいはシェークスピアに傾倒して、 その全訳 「シェー クスピヤ全集」 四十巻を完成しました。

逍遙は早くから熱海の風土を好み、 明治44(1911)年には荒宿の 地に小さな別荘を営みました。 しかし熱海町の発展につれ、そのあたりは 繁華な町となったため静けさを求めて、 大正9(1920)年に山の手の 水口村 (水口町) に居を移しました。 この地は、 うしろに四季折々その趣をかえる山々を背負い、眼下には熱海の海と市街がひろがる景勝の地でした。 敷地には、二百余年を経たかと思われる二本の老柿があり、 逍遙はこれに因んで 「雙柿舎」 と命名し、以来ほとんどここに起き伏して著述や研究につとめ、ここで生涯を終えました。

双柿舎はすべて逍遙自身の設計です。 建物はもちろんのこと、 庭のたたずまい、 泉石の配置、 一木一草に至るまで、 逍遙の細心の注意が行届いており、 さながら一つ創作々品をみるようです。 逍遙書屋は昭和3(1928)年に建てられましたが、これも逍遙の苦心の作で、 和漢洋を折衷した特異な景観をもち、塔上には、 シェークスピアの句から思いついた鋳金翡翠の風見が掲げられています。 昭和5(1930)年、この土地建物は財団法人・ 国劇向上会に寄付され ましたが、 逍遙は昭和10 (1935)年2月28日、 77歳で逝去、 また セン夫人も昭和24(1949) 年2月21日85歳で長逝しましたので、 同会から早稲田大学に寄贈されました。

 

塀の隙間から写真を撮ってきた。

翡翠の風見?手前がたぶん柿の木だろう

さらに坂を下ると長い塀に囲まれた目を引く建物があった。おっと、ここも休館日だ。

起雲閣

非公開の岩崎別荘、今はなき住友別荘と並ぶ「熱海の三大別荘」だそうだ。

www.city.atami.lg.jp

中に入れなくて残念だった。平日って空いていていいけどこういうこともあるのね。

さあ、次は糸川沿いの遊歩道に熱海桜を見に行こう。

あたみ桜

「あたみ桜」は、明治4年(1871年)頃イタリア人によって熱海にもたらされたと伝えられています。 その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植栽されています。 「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1~2週間 )

市制40周年にあたる昭和52年4月に熱海市の「木」に制定さ れました。

 

海辺に出るとやっと暖かさを感じられるようになってきた。天気予報では南風が吹いて暖かくなるとは言っていたものの、朝はウソ~と思うくらい寒かったのだ。

カモメさんと熱海城

海辺のあたみ桜

あぁ、良い天気!

出ました!貫一お宮の像

貫一の足元のプレートには…

この像は、明治時代の新聞連載小説、 尾崎紅葉著 「金色夜叉」の主人公の貫一とお宮の切ない別れを再現したものです。 二人の心の擦れ違い、 愛情 悲しみが詰まった象徴的な場面であるため、物語を忠実に再現したもので、決して暴力を 肯定したり助長するものではありません。 是非、この小説をご一読いただき、二人の心情や当時の世相に思いを馳せていただけましたら幸いです。

と。

時代ですね~ 

その隣の説明板には…

お宮の松」の由来

お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名されたものです。

この松は、江戸時代前期(一六四五年頃)、知恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本といわれております。この松は、その姿が美しかったことから、「羽衣の松」とも呼ばれていました。 明治三〇年(一八九七年)から読売新聞に連載された「金色夜叉」により、 熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたものです。このことから、大正八年(一九一九年) 熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に「金色夜叉」の碑が建立されました。

この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句『宮に似たうしろ姿や春の月』 が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となりました。

また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後ろ姿に似た記念碑」と認めています。

昭和二十四年(一九四九年) キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだしました。( 初代「お宮の松」の樹齢はおよそ三〇〇年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約二メートルの場所にありました)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めました。 その結果五十数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」 に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏より寄贈を受け、 小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大なご協力により、昭和四十一年(一九六六年)現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものです。

お宮の松」の樹齢は、平成十三年(二〇〇一年)現在でおよそ九十五年、添松はおよそ七十五年になります。

とあり、政財官それに市井の人々まであげての「金色夜叉」への熱狂ぶりがうかがえる。

お宮の松

これぞ熱海!を堪能したので、再び駅へ戻る坂道をエッチラオッチラ。

賑やかなアーケード街でキンメダイのハンバーガーを食べた。う~ん。。お口に合わないよ。。キンメダイはやっぱり煮つけがいいな!

 

駅からハイキングはこれでゴールだけど、まだ日が高いのでMOA美術館へ行こう。紅白梅図屏風が公開中のはず。バスを待つ間、駅前の無料の足湯でしばし休憩。

MOA美術館

山の上のMOA美術館は館内も屋外も眺望が素晴らしく、広々と贅沢な空間だ。

 

国宝 尾形光琳紅白梅図屏風

実物を初めて見ました。意外と小さかった。

 

国宝 野々村仁清「色絵藤花文茶壺」

もう一つの国宝も公開中。薄暗い広い部屋にポツンと。なんて贅沢なんだ。

 

充実した一日に満足して、帰りは贅沢にも「こだま」で帰った。

 

7.1Km