寒さが緩んだ日曜日はちょっと遠出して千葉県佐倉市へ。
公園の片隅に正岡子規の句碑があった。
子規が見上げたのはお城かな。さぁ、お城目指して歩くぞ~
と、コースを間違えてお城の下まで行ってしまったが、まずは武家屋敷に行かなければいけなかった。
ひよどり坂を通っていけば武家屋敷なのだが、上のお寺で樹木の伐採をしていて通れなかった。
回り道をしてそのお寺「大聖院」に着くとこんな水道があった。
「水道の由来」
この水道は、大川徳治氏が水道事業を始めるに際し、自分の菩提寺に水を供給しようと志を立て、ご寄贈いただいた当地方第一号のものである。 その由来を見るに、現在の佐倉市水道事業の前身は、昭和二年十二月に国より正式に認可された私営水道所であり、正確には大正十三年末に、既に部分的に給水を開始していた個人経営の水道であった。これは千葉県営 の水道よりも永い歴史を誇るものである。昭和三年に始めて水道用被圧地下水の井戸を、鏑木町大谷津の低地に設置し、裏山をかけ上って氏の住む弥勒町を起点として、独自の構想と方法で逐次、旧佐倉町内の台地に配管綱を拡げていった。そして、昭和九年の秋菩提寺にとうとう念願の水道を設置したのである。
しかし常時送水するには本管自体も細く、水量水圧も不足であった。 そこで昭和十年の夏、宮小路の麻賀多神社の登り口に、ブリキ製のタンクを設置して水量水圧の補足をしようとしたが、薄いブリキ製のために高水圧に耐えられる筈がなく、一夜にして破裂してしまった。 そこで、昭和十二年に裏新町にあった地下槽を利用し、 この上に加圧ポンプ場を作って、 当方面の給水に当ったのである。氏は昭和三十年佐倉市に、この水道を譲渡するまで水道所の経営に一生涯を捧げ、昭和三十三年の九月に他界した。
因みに氏の辞世の歌は、
「丘の上の 佐倉のまちの土を掘り 鉄を埋めて吾老いにけり」
この歌は当山に保存されている。
平成四年九月
市井の偉い人!
風の中のすばる 砂の中の銀河♪ と歌が聞こえてくるようだ。
江戸時代の武家屋敷は、その大半を藩が所有し、藩士に貸し与えていたものだという。屋敷の規模や様式はそこに住む藩士の家格や役職の象徴だった。(今で言うところの社宅ね!)
佐倉武家屋敷には三軒の屋敷があるが大屋敷、中屋敷、小屋敷の各様式を見ることができる。
どちらが格の高いおうちだったか忘れてしまった。たぶん左?
丁寧に説明してくださったボランティアさんに見送られて、次は城址公園へ
堀田正睦とタウンゼント・ハリス像
堀田正睦公
日本を鎖国から開国に導いたことで知られる堀田正睦公は、 文化7年(1810) 8月1日に生まれ、文政8年(1825) に佐倉藩主となりました。
天保4年(1833) に藩政改革を宣言し、文武の奨励によって藩士の意識高揚を図り、人々の生活の向上にも力を注ぎました。 特に、藩校の拡充や諸藩に先駆けて蘭学を導入するなど、多くの人材を育成しました。
公は、天保12年(1841)に幕府の老中に就き、安政2年(1855) には老中首座となり、翌年には外国事務取扱に任じられます。 「攘夷」が叫ばれるなか、欧米列強に対抗するには、 貿易によって国を豊かにすることが必要であるとして開国を唱え、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと「日米修好通商条約」を結ぶ交渉に全力を傾けました。
元治元年(1864) 3月21日、公は、佐倉城中の三の丸御殿で卒し、甚大寺に葬られました。
後に、法号から 「文明公」と称えられ、広く敬愛されています。
この銅像は、佐倉ライオンスクラブが正睦公の遺徳を偲び、クラブ創立40周年を記念し、 ゆかりの地に建立するものです。
平成18年10月21日
佐倉市長 渡貫博孝
タウンゼント・ハリス Townsend Harris
安政3年(1856) 7月、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、フランクリン・ピアス大統領の親書を携え下田へ到着しました。 来日の目的は、 他国に先駆け日本と通商条約を結び、開国を実現させることでした。 こうしたアメリカの動向が、 開明派の藩主堀田正睦公を外交の舞台に登場させることとなりました。
ハリスは正睦公との幾度にもわたる直接交渉で紆余曲折を重ねますが、「通商関係は、相互の友愛と信頼によってのみ実現する」 との強い考えが、正睦公を共感させたようであります。
安政5年(1858)6月に至り、イギリス、フランスなどからも開国要求の激しさが増す中、ハリスは正睦公に対し、「今こそ条約調印の機」と訴えました。 こうした状況を受け、それまで正睦公の指揮下で交渉にあたってきた井上清直、岩瀬忠震両名がアメリカ軍艦ポーハタン号に赴き、日米修好通商条約に調印しました。 今からちょうど150年前の6月19日のことです。 幾多の困難を乗越え、大役を果たしたハリスは、文久2年(1862)4月、5年9か月間の日本滞在に終止符を打ち、南北戦争の只中にある母国に帰りました。 この銅像は、日米修好通商条約150周年を記念して、佐倉街づくり文化振興臼井基金等の支援、協力のもと、佐倉ライオンズクラブが建立するものです。
平成20年6月14日
佐倉市長 蕨和雄
城址公園の中には国立歴史民俗博物館もある。面白そうだけど、今日はパス。先を急ごう
麻賀多神社略記
御祭神 稚產靈命
お名の「稚」は若い、「産霊」は形成するの意で、若いものを育てあげるという御神徳を表わしておられ、 人・作物・事業等の生成、発展をお加護くださる神さまで、お稲荷さまの御親神にあたられます。
御由緒
麻賀多神社という社名は、今から一、〇五〇年ほど 前の政令というべき「延喜式」の下総の項に、この社名がすでに記載されております。
佐倉の総鎮守、産土さまで遠い昔から「まかたさ ま」とこの地方の人々にしたしまれ崇敬されてきた お社です。徳川時代は佐倉城の大手門近くに位置する神社なので歴代の城主、家臣も城地鎮護の神としてあがめました。現在の御社殿は天保一四年藩主堀田正睦公が再建、境内前面の石垣は明治初年に最後の藩主同正倫公が奉納されたものです。
御例祭
一〇月一四・一五・一六日
御神幸に使用される大神輿(台輪巾一五一センチ、 市指定文化財)は享保六年、当時の藩主稲葉正知公の家臣と町方が協力し金子三〇〇両の経費をかけ製作されたもので、今日数少ない江戸神輿の代表的な 存在です。
宮司さんは女性?またイラストを描く禰宜さんがいらっしゃるらしく、境内は、伝統を踏まえつつも若い女性に好まれそうな雰囲気に拵えてあった。
麻賀多神社から東に向かう一本道は商人地。その中ほどにある佐倉市立美術館は大正時代に建てられた旧川崎銀行佐倉支店(千葉県指定有形文化財)だそうだ。
一本道から少し横に入ったところにある甚大寺には堀田家の墓所がある。
甚大寺
安城山不矜院甚大寺は、元和元年(一六一五) 慈眼大師天海大僧正が、天台宗比叡山延暦寺の末寺として山形城下に建立された寺である。
元禄十四年(一七〇一)に山形城主であった伊豆守正虎公(佐倉堀田家三代)が開基となり、当山十二世秀鏡法印が中興した。
しかし、延亨三年(一七四六) 堀田相模守正亮公(五代)が、佐倉城主として転封されるに際し、同年八月、現在の地に移したも のである。
安置されている本尊、十一面観世音菩薩(市指定文化財)は、 堀田正倫公(十代)の御念持仏で、わが国彫金界の泰斗である佐倉出身の津田信夫の作である。
また、金毘羅尊は、堀田相模守正順公(六代)が天下泰平、万民豊楽を祈り、城内の守護仏として、四国象頭山より勧請したものである。現在、毎月十日は金毘羅尊の縁日として近隣町村からの参詣者を迎えている。
大伽藍を容した旧本堂は、明治初期の大火で焼失したが、現在 の本堂は阪東二十八番札所滑川龍正院の建物を昭和三十六年に移築したもので、享保十一年(一七二六)六月、当時下総の国を挙げて建立されたものである。
境内奥には、堀田家累代の廟が静かにたたずんでいる。
昭和六十年三月
再び戻った一本道には古い商家が何軒か残っていて、それぞれに説明看板があったので撮ってきた。
現存の建物は、今井氏が 「駿河屋」の屋号で呉服商を営んだ古民家です。 主屋は、 明治二二十二 (1889) ~明治二十五 (1892) 年前後に建てられたと推定されます。 奥の蔵は明治二十五 (1892)年に建てられたことが棟札により判明しています。
また、ここは江戸時代の郷宿(旅籠) 「油屋」の跡地でもあり ます。 この 「油屋」には、桂小五郎 (長州藩士)、 山本覚馬 (会津藩士)、清河八郎 (庄内藩士) などが宿泊したことが宿帳により分かっています。
石渡家住宅
登録年月日 平成13年5月16日
主屋 木造一部2階建
蔵 木造 2階建
主屋は 「みせ」と 「すまい」からなり、 「みせ」は大正5 年、「すまい」 は明治40年に建てられたことが分かって いる。 蔵は、明治38年以前に建てられたと推定されるが、 詳細は不明である。 「みせ」の外観については一部改装されているが、出桁造とし、隣家に面する東西の壁を漆喰塗にするなど、 佐倉の町家の特徴を良く残している。 蔵は屋根のつうじ棟 (瓦を一定の隙間をとって積み上げ、その隙間に漆喰を塗り込め、重厚に見せる棟) や軒先に優れた意匠がみられる。
いずれも佐倉における伝統的な町屋の景観を残した貴重な建造物である。
三谷家住宅
登録年月日 平成13年5月16日
主屋 木造、一部2階建
袖蔵 木造、 2階建
座敷屋 木造、 2階建
袖蔵は明治17年に建てられたことが棟札より確認され、主屋もその頃には建っていたと考えられる。 また、座敷屋は昭和10年位頃に建てられている。いずれも近代の佐倉における有力商家にふさわしく造形的に優れた建物であり、出桁造の主屋と並んで袖蔵が建つ当時の商家の構えをよく残している。佐倉の伝統的な商家として貴重な建物である。
町人地を通って今日のコースの東の端まで来た。そこには佐倉順天堂記念館があった。
千葉県指定史跡
旧佐倉順天堂
昭和五十年三月二十八日指定
順天堂は、長崎に遊学後江戸に蘭医学塾を開いていた蘭医佐藤泰然が佐倉に移り住み、天保十四年(一八四三)に開いたオランダ医学の塾です。
ここではオランダ医学書を基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実践的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が参集しました。
泰然の養子佐藤尚中(山口舜海)は、長崎でオランダ軍医 ポンペに学んだ後、系統的な医学教育をとり入れ、ここで学んだ塾生の多くが明治医学界において活躍しました。
明治時代になると佐藤尚中は新政府から大学東校 (現東京大学医学部)の最高責任者として招かれた後、 御茶ノ水に順天堂医院を開業しました。
一方、佐倉の順天堂は養子佐藤舜海(岡本道庵)が受け継ぎ、佐倉順天堂として医療活動を続けました。
現在残っている建物は、 安政五年(一八五八)に建てられたものと、その後拡充された施設の一部です。
平成五年十二月二十日
展示品の一つに横額の書があった。(撮影禁止だった)
「釣月耕雲」
あ、これ見たことある!うちの田舎にもあった!
釣月耕雲
林董筆、明治43年(1910) 作
【読み下し】
月を釣り 雲を耕す
【意味】
月を釣り、 雲を耕すようなゆったりとした心境を示す。 曹洞宗の開祖である道元の詩の一節より引用。
林董は順天堂の創始者佐藤泰然の五男で、明治期の外交を支え、のちに伯爵となった人だ。
そんな人にうちがご縁のあろうはずもない。我が家の「釣月耕雲」は別人が書いたものだろう。
思いがけない出会いに驚きながら、コースの最後「旧堀田邸」に向かった。
旧堀田家住宅(国指定重要文化財)
旧堀田邸は堀田正倫の邸宅として、 1890年(明治23)に竣工しました。 1910年(明治43) には東宮の行啓に備え、玄関棟の東側に湯殿が増築されました。 現在は主屋のほか門番所や 土蔵などの建物が残されています。
伝統的な和風様式で建築された主屋は、 木造平屋建て一部二階建ての5棟 (玄関棟・座敷棟・ 居間棟 書斎棟 湯殿)から成ります。 現存する明治期の旧大名家の邸宅として全国的にも希少であり、2006年(平成18)には主屋と門番所、 土蔵の計7棟が国の重要文化財(建造物) に指定されました。 かつては居間棟の北側に台所棟が接続していましたが、昭和時代末に石庫や「女中部屋」 とともに解体されました。
明治時代になって建てられた旧大名家の邸宅は、接客にあてる玄関や座敷、 家政の事務所機能のための公的な空間と家族の居間や寝室などのほか、彼らの生活を支えた使用人のための私的な空間とに大きく分けられます。 旧堀田邸の建築もこれに沿った平面プランとなっています。 旧大名家の邸宅で伝統的な和風様式の近代建築で現存する類例としては、旧堀田邸のほか には御殿 (鹿児島市)、 戸定邸 (松戸市)などに限られます。
旧堀田正倫庭園 (国指定名勝)
台地の縁辺に広がる庭園には芝が貼られ、マツやサルスベリなどの 庭木に景石や灯籠が配され、眼下の川や対岸の台地を借景としています。設計は東京巣鴨の植木職 伊藤彦右衛門によるもので当時の図面やその後の変遷がたどれる史料も残されています。 こうした点が評価され、2015年(平成27)に国の名勝に指定されました。
壁土の色がなんともステキ 「桃山」という色だそうだ。
広大なお殿様のお屋敷をあとにして、佐倉駅でゴール。
途中、道を間違えたのもあって距離を稼いでしまったが、静かな美しい街を歩けて良かった。
12.4Km