春の足音が近づいている
最後になんとなく桃色の満月
春の足音が近づいている
最後になんとなく桃色の満月
1月2日、初もうでに行った。
場所は落合氷川神社。西武新宿線の車中から鳥居がよく見えるのでなじみがあったが、行ったのは初めてだ。
お賽銭箱に宝船の絵が置いてあり、枕の下に敷いて寝てくださいと書いてあったので一枚いただいてきた。
するとその晩夢を見た。
昔働いていた職場のチームリーダーのお姉さんが現れて、なにかリアルな会話をしたのだ。そのお姉さんのことは退職後数十年間、たぶん一度も思い出したことはなかったのに。
似たような体験は、ノロだかロタだかの感染症にかかって苦しんだ時にもあった。人は死ぬときに走馬灯のように今までの人生を見るというが、まさにそんな感じで、トイレに閉じこもってゲーゲーピーピーしているときに普段思い出しもしないことがふとよみがえってきたりして不思議に思った。
記憶とは不思議なものだ。忘れたと思っても実は湖深くに沈んでいて取り出せなくなっているだけなのだろうか。
年齢とともに記憶力が衰えていくのを自覚しているが、覚えるほう(input)はどうにもならなくても、沈んでいる記憶を釣り上げるほう(output)は、もしかしたら画期的な手段をだれかが開発してくれるかもしれない。
その日はいつかなあ…
チームリーダーのお姉さんと交わしたリアルな会話は、目覚めたときには覚えていたのに、いつの間にかまた記憶の湖に沈んでいき今ではまったく思い出せない。
枕の下に敷いた宝船の絵を見ると、船いっぱいのお宝は記憶の湖から釣り上げたたくさんの思い出に見えてきた。
2023年も終わろうとしている。
今年は次女の家がインフルエンザに次々とかかり、大晦日生まれの孫の誕生日会が危ぶまれた。
そこで、ばあちゃん出動!ケーキを買って届けるくらいしてあげるわよと声を掛けたら、ネットで見たイチゴいっぱいのこのケーキがいいと巣鴨のケーキ屋さんを指定された。す、巣鴨?え~
仕方ない、ヨシ、行ってやろうじゃないの と出かけようとした矢先、アメリカにいる長女からテレビ電話が…
クリスマスに電動自転車を盗まれてしまったそうだ。ガレージが開いていて、それは自分が閉め忘れたのか、泥棒さんがなにかデバイスを使って開けたのかはわからないが、バッテリーは外して家に持ち帰っていた、しかし、ガレージの中だし大丈夫だろうと自転車にカギはかけていなかったとのこと。犯人は重~い自転車をエッサカホッサカ運び出したらしい。
長女は、ショックだ!高い勉強代だったと落ち込んでいた。
その話をケーキを届けに行きついでに次女に話した。比較的治安のよさそうなところでもそんな目に遭うんだね~、外国って怖いね~ などと話していると、そばで聞いていた孫が「怖い話やめて、怖い話聞きたくない」と次女にしがみついている。「大丈夫だよ、日本は」と言って、ばあちゃんと娘はひそひそと話を続けていると「やめて~ もうテレビつけちゃう」と言って自分の耳に入らないようにしようとする。
なんだか、幼児のふわふわな柔らかな心に触れたようで、きゅんとした。
正月の生花はナンテン(難を転ずる)です。
来年もみんなが元気で無事でありますように。
さあ、今日も駅からハイキング!
スタートは飯田橋駅だ。前回の駅と違って、「大人気の駅からハイキング!今日が最終日ですよ~」と呼び込み(?)もにぎやかだ。
坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、 若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
坂道沿いに軒を連ねるお店がおしゃれなカフェだったり、美味しそうな中華屋さんだったり、覗いて歩くのも楽しい。
少し坂を上がった左側にある毘沙門天善國寺の境内では「越前若狭祭り」が行われていた。
神楽坂は福井県ゆかりの地です。
江戸時代、小浜藩の江戸屋敷は神楽坂周辺にありました。 寛永5年(1628年)に酒井忠勝が三代将軍徳川家光からこの地を拝領し、 後に若狭国(福井県) 小浜藩の下屋敷となったのがはじまりです。 神楽坂通りは、酒井家の下屋敷と牛込御門を結ぶ約1kmの道を、 忠勝の登城道として寛永年間に整備したものです。
坂を上りきってさらに西に進むと早稲田に近づく。そんな場所に漱石山房記念館があった。
夏目家で飼った動物のうち、『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」は、明治四十一年(一 九〇八) 九月十三日に亡くなると、裏庭のサクラの木の下にみかん箱に入れて埋葬され、「この 下に稲妻起こる宵あらん」という句を添えた二寸角の白木の墓標が建てられた。その後、文鳥も合葬された。犬のヘクトーの墓も近くに建てられ、「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という句を添えた。猫の墓と呼ばれるこの石塔は、福猫の十三回忌にあたる大正九年(一九二〇) 夏目家で飼われた生き物たちを供養するため、漱石の長女・ 筆子の夫・松岡 譲が造らせた九重塔で、台石には津田青楓の描いた猫・犬・鳥の三尊像が刻まれていた。しかし、昭和二十年(一 九四五)五月二十五日に空襲で漱石山房が焼失した際に損壊し、現在の石塔はその残欠を利用して昭和二十八年(一九五三)十二月九日に再興されたものである。現存する漱石山房の唯一の遺構である。
ここで折り返して来た道を戻るように進むと、左手に牛込の総鎮守赤城神社がある。
ガラス張りの社殿は隈さん設計じゃなかったかな…たしか
初めて見たときはあまりにモダンな神社なのでびっくりした。
神社の北側が急斜面になっていて見晴らしがよいのだが、小さなお社があるのに気づいて降りてみた。
赤城出世稲荷神社
ご祭神
宇迦御霊命 /保食命
創記は詳らかではありませんが、赤城神社が当地にお遷りする以前(弘治元年1555年)から地主の神と尊ばれ鎮座。出世開運のご利益があるとして大名・公家の崇敬を受けておりました。また穀物・食物を司る神様として、五穀豊穣、衣食住、商工業繁栄のご神徳を備えておいでです。現在は神楽坂商店街などの商売繁盛と近隣サラリーマンの崇敬を集めております。戦前まで5月5日の例祭日にはお神楽が奉納されていました。
八耳神社
ご祭神 上宮之厩戸豊聰八耳命(別称:聖德太子)
戦火で焼失した昔の「太子堂」です。この八耳様は「あらゆる事を聞き分ける天の耳」を持つ聖徳太子であり、聡明な知恵を授かることができます。なにか悩み事のある時は「八耳様・八耳様・ 八耳様」と三回唱えてからお参りすると、自ずと良い考えが浮かぶと伝えられる。また耳の神様として広く信仰を集め、耳の病気や煩いを治してくれるとして、全国各地から参拝に訪れている。 合殿に大国主大神、丹生大神、を祀ります。
葵神社
ご祭神 徳川初代将軍徳川家康公
牛込西五軒町の天台宗宝蔵院に鎮座していたが、明治元年神仏混合を廃止された際に當境内へ遷座。徳川家初代将軍として江戸時代の政治、文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。かつては江戸市民の家康公への信仰の対象でしたが、現在は神楽坂の「東照宮」として親しまれ、学問と産業の祈願成就を願って、参拝する方に心の安らぎを与えてくれます。
合同庁舎なんですね。
筑土八幡神社由来
昔、嵯峨天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をた
れん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわして、その松を祀った。 その後、伝教大師がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して詞に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年の戦災で焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。
園内は紅葉がきれいでにぎわっている様子だったが、西門から東門へと壁の外を歩く。つわぶきが花盛りだった。
ここから南へ。
ここから見るのは初めてだ。夏には花が咲くのかしら。。
昭和36年6月7日指定
江戸城は、長禄元年 (1457) に太田資長 (道潅)によって創られたとされる。 天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592) から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607) に天守閣が、寛永13年 (1636) に総構が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657) をはじめ、数度の大火に見舞われたものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。
清水門は、北の丸北東部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現存の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から万治元年(1658)に建てられたものであると考えられ ている。しかし、櫓門の上部は、時期は不明ながら撤去されていたものを昭和36~41年度の修理で復旧整備したものである。清水門は、建立年代の判明する江戸城の遺構として高い価値を有しており、門から北の丸に至る石段とともに 江戸時代の状況を色濃く残している。
昭和36年6月7日指定
江戸城は、長禄元年(1457) に太田資長(道潅)によって創られたとされる。 天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592) から大規模な改修が 実施され、慶長12年(1607) に天守閣が、寛永13年 (1636) に総構が完成し、 大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657) をはじめ、数度の大火に見舞われたものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。
田安門は、北の丸北部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から寛永13年に建てられたものであると考えられている。 しかし、櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたものを、昭和36~41年度の修理で復旧整備したものである。田安門は、 江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建物であり、高い価値を有している。
↑ 説明文が清水門とほとんど同じだ。(実はgoogle先生が脱字を指摘してくれたのでここでは足しておいたけれど、抜けている字も一緒)
穏やかな明るい晩秋の光で、写真の腕も上がった気がする。('◇')ゞ
ここから飯田橋駅に戻り、ゴールだ。
お天気も良く、ほどよい距離に見どころいっぱいの楽しい街歩きだった。
9.5Km
もう晩秋になってしまった。お天気がいいので菊まつりでも見に行こうかな…と、選んだコース。スタートは常磐線友部駅だ。
「駅からハイキング」ののぼりが一本立っているところに地図が置いてあるだけという愛想なし。その地図も雑な作りで、目標物もなく最初の通過点まで40分歩くとあるからひたすら歩いて、ようやく道を間違えていることに気が付いた。そもそも駅の反対側からスタートしなければいかなかったのだ。
しょうがないなぁ… google先生に聞いてリルート開始だ。
目指すのは北山公園、その南側に白鳥湖という湖があり、その周囲にハイキングコースがあってそれを通っていくようだ。
色づいた樹々の下、きらきら光る水面を眺めながら…はいいのだが、近くに射撃場があって、絶え間なく銃声が鳴り響く。こんな人っ子一人いないところで流れ弾に当たったらどうしようとハラハラした。
二倍以上の時間をかけてようやく北山公園に着いたので、再びリルート開始。次の目的地は「道の駅かさま」だ。
栗の名産地だけあって、どこもかしこもモンブランだ。それぞれにたくさんの人が並んでいる。農産物コーナーに栗も売っていたが高かった~(大きくて立派だったが…)
ソフトクリームで糖分を補給したあとは笠間稲荷神社を目指してまたまたリルート開始。
途中、ギャラリーや美術館や骨董市などいろいろあったが、今日はパス、菊を見るのだ!
植木鉢には名札がついている。学校や職場で一人一鉢、丹精込めて育てたのだろう。
おっと、帰りの時間が!駅まで息を切らして走った。
が、間に合わなかった…
19.5Km よく歩きました
朝晩は上着が必要なくらい季節が進んだ。
この日は降水確率0パーセント、お散歩に好適だというので、総武本線干潟駅という全くなじみのないところに行ってみた。
干潟というけれど、海に近いわけではない。何もない原っぱの中をひたすら歩く感じ…
この地は昭和十八年太平洋戦争さなかに完成せる香取海軍航空基地の跡なり
慰霊碑はこの飛行場より飛び立ち訓練に或は戦場に向い遂に還らざりし若鷲達と空襲により没せし市民の御霊を祀るものなり 彼等に限りなき敬意と愛情を抱く全国の戦友と近隣の市民有志は御霊よ永遠に安かれと祈り又将来の平和の礎たれと念じ互いに力を合わせこの碑を建立し謹みて碑内に霊璽簿を納む
昭和五十一年十一月二十三日 慰霊碑建設期成会 慰霊題字源田實
そうか、このあたりは飛行場だったのね。
俺体壕とは、敵襲が予想されたときに航空機を退避させるためのコンクリート製格納庫だそうだ。
原っぱや工業団地の周辺をしばらく歩いて鎌数伊勢大神宮という神社についた。
この辺りは昔、椿の海という海(?)だったそうだ。それを干拓した地に、工事の無事を祈願して創建されたのがこの神社だそうだ。境内にそのいわれを示す絵図があったのでパチリ。
写真の黄色い枠の中に書いてある伝説が面白かったので、以下に抜粋
昔、遠い神代の昔、日本に三本の大樹がありました。
第一が長門の大楠、第二が丹波の大栗、第三が下総の大椿、下総の大椿は、海上、香取、匝瑳の三郡に跨り、四方に枝が広がり、真っ赤に花が咲き乱れ、木の下が暗く、その下に魔王が住み、日本国を占領しようとねらっていました。
之を知った、猿田彦命、香取の経津主之命、鹿島の建御雷槌之命が天之鹿児弓、天之羽々矢で之を討ち払いました。魔王も之には叶わず椿の大木を引き抜いて、東南の海上に逃げ去りました。
その大木を引き抜いた跡が湖になって「椿の海」と言い、流れ着いた木の枝が九十九本あったので、九十九里浜と言い、又天羽々矢の突き立ったところを矢指ケ浦と言うようになったという伝説です。
神社から南に下って総武本線を越えると、豚舎や牛舎が立ち並ぶ。そういえば、千葉県食肉公社なんていう建物も通り過ぎたっけ。
それにしても強烈な臭気だ。動物さんのお世話をするのも楽じゃないね。。
しばらく一面の田んぼや畑、歩けども歩けども、さっきの臭いがついてくる。私の鼻がバカになったのかしら…と思ったが、後で地図を見ると、少しだけ高度が低いところがある。そこに臭いが溜まるのだろうか。
9.8Km
空は青く晴れ渡っていたけれど、飛行場の跡地も動物たちの臭いも、なんとな~く悲しい、そんな駅からハイキングだった。