穏やかな早川のほとりを歩き、箱根湯本まで 2023/05/01

ゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか。。

大きな荷物のインバウンドのお客様も目に付くようになりましたね。でも思ったほど混んでないかなぁ…  あ、そうか、まだお休みじゃない人(日本人)も多いのね。

 

この日出かけたのは小田原。30年ぐらい前に子供を連れて思い切り遠出をしたつもりの日帰り小旅行をした。その時からお城は変わってないはず… 街並みはおしゃれレトロになっているようだ。

小田原城

ローソンも渋い

 

小田原用水

小田原用水とは

小田原用水は箱根から流れてくる早川の水を小田原の町へと送る水路です。 取水堰は国道一号・上板橋交差点付近に設けられています。 この用水は日本で最初期の「上水道」です(『明治以前日本土木史』)。小田原合戦(天正一八年(一五九〇))に関する絵図(島原松平家 「小田原陣図」)にも描き込まれています。一七世紀の初めには、石蓋のある石組の水路が東海道などの街路へ流れ、街路に面する屋敷に分水路が作られていました。一七世紀の中頃には、街路に面する屋敷への分水路に、木や竹を使った複雑な仕組みが導入されました。低いところに流れる自然の力を巧みに使った先人の知恵です。

また、水路を構成する石には近くの風祭などで採れる安山岩が利用され、小田原産の石は「水道石」と呼ばれて江戸の神田・玉川上水などに使われました(「永代日記」ほか)「水道石」を扱っていた石材店は、今も板橋地区に残っています。 小田原の技術が江戸時代の都市文化を支えた一面がかいま見えます。 明治時代に入ってからも、さらに給水範囲を広げたほか、 市民が自主的に管理する仕組みをつくるなど、小田原用水は上水道として欠かせないものでした。江戸時代から用水の管理には住民も参加し、汚さないよう細心の注意が払われました。

ところが、上流の板橋付近で水田や水車に使う水量が増加したことなどによる紛争が続きます。 また、コレラなど伝染病が繰り返し流行したほか、高台に有力者たちの別荘が立ち並んだことで近代的な上水道が作られることになり、昭和一一年(一九三六)、小田原用水は上水道の役目を終えました。 その後も戦前は、水田や水車に利用されただけでなく、その清流は別荘地・住宅地の魅力を高めると評価されていました。この案内板は三井物産創業者・益田孝の別邸・掃雲台跡に立っています。 茶人としても知られる益田は、自邸内を流 れる小田原用水から蜆をとっては懐石に仕立て、客人をも てなしたといわれています。

民家のデンドロビウム

用水沿いの民家の石垣にデンドロビウムがたくさん咲いていた。我が家の鉢植えは乾かし気味だが、もともと熱帯雨林の樹上に育っていたりしたのでしょうから、こんな環境が合っているのかもしれない。

 

 

内野家住宅

内野邸
この建物は、 板橋の地で3代100年近くに渡って醤油醸造業を営んでいた内野家の店舗兼住宅として 明治36年(1903)に建てられました。当時流行していた土蔵造り風の町家で、「なまこ壁」や「石造アーチ」など、和洋折衷的な特徴ある意匠が取り入れられた貴重な歴史的建造物です。

 

香林寺

文明16年(1484)創建と伝わる曹洞宗の寺院。早川の海蔵寺、久野の総世寺とともに小田原三山と称した。

 

香林寺の隣に松永記念館というのがあった。「電力王」と呼ばれた実業家、松永安左ヱ門が集めた美術品を公開するために建てられたそうだ。高低差のある敷地内に「日本の歴史公園100選」に選ばれている庭園、松永が住居として建てた「老欅荘」、田舎家「無住庵」などがある。

庭園

老欅荘
座敷と庭の眺め

松永安左ヱ門(耳庵)が昭和21年に小田原へ移り住むために建てられたもので、その名称は、登り口にそびえる欅の大木に由来しています。耳庵はここで多くの茶会を催し、当時の有名な茶人・政治家・学者・建築家・画家などを招きました。四畳半台目の茶室や三畳大の床の間を設けた広間、母屋に取りつく三畳の寄付などの意匠に数寄屋建築として特徴が見受けられます。国登録有形文化財

無住庵

昭和30年、松永安左ヱ門(耳庵)が、老欅荘の山上に設えた田舎家で、柳瀬山荘(現・埼玉県所沢市)内にあった築200年の農家の古材が用いられています。耳庵の没後、近隣に移築されていましたが、平成29年小田原市に寄贈され、松永記念館敷地内に移築復元したものです。天井にかかる大梁(おおはり)、緩い葦簀(よしず)の化粧天井、長苆(すさ)入りの土壁などに、田舎家の風情が表れています。

 

次に訪れたのは板橋地蔵堂。境内の大銀杏も相まって堂々たる佇まいだ。

板橋地蔵堂

板橋の地蔵尊
この地蔵尊は「板橋のお地蔵さま」と呼ばれ、古くからこの地方に名高く知られわたっている。
永禄12年(1569)、 香林寺九世の文察和尚は、 身丈一丈(約330センチ)の大坐像を造り、箱根湯本の宿古堂に祭られていた弘法大師彫造の御真体を胎内に安置したといわれている。
毎年1月と8月の23日 24日の両日が縁日で、当日は境内及び参道に市が立ち参拝者で賑わう。この地方では、新ホトケが出た時、その家族及び縁者が3年間つづけてこの地蔵 尊へ参詣する習俗があり、この日に参詣すると故人に似たひとに必ず合えるといわれている。 この境内には、寛政7年(1795)に建てた一刀流6代目の横田常右衛門豊房と7代名 坂四郎治政宜の供養碑が立っている。 また明治戊辰の役の後に、 合戦の犠牲者となった官軍の軍監中井範五郎らあわせて13名の姓名を刻んだ慰霊碑もある。

 

小田原用水(早川上水)取入口

小田原用水(早川上水) 取入口
小田原用水(早川上水)はこの地で早川の川水を取り入れ、 板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、板橋見付から旧東海道を東に流水して古新宿を通り、 江戸口見付門外蓮池に流れ出たもので、途中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。 この古水道は小田原北條氏時代に施設されたものと思考され、 我が国の水道施設の中では初期の頃の水道と思われる。江戸時代になっても利用され、 城下17町の飲料水として利用されていた。 その後上水道から下水道へと姿をかえ、 昭和31年市内電車の軌道撤去による国道の大改修によって面目を新たにした。 なお、近年道路工事中に、江戸時代のものと思われる分水木管が発見され、 その一部が市立郷土文化館に保管 されている。

 

早川沿いを歩き、風祭へ。

ここには駅伝の中継地としても有名な鈴廣かまぼこさんがある。

www.kamaboko.com

登山電車「モハ1形107号」

CAFE107にてレモンサイダーで一休み。

CAFEの名前も、かまぼこピンチョスが107種類あるということも、この電車から来ているのね~  と今頃気づく。

 

明るく楽しい観光スポットから一転して、風祭駅から少し山を登ったところにある寺院萬松院には悲しい歴史がある。(写真撮り忘れ)

徳川家康公嫡男

松平信康公 供養塔

松平信康は永禄2年(1559)、徳川家康の長男として駿府で生まれました。永禄10年(156 7)、9歳にして織田信長の娘・徳姫と結婚。岡崎城で夫婦は暮らすことになりましたが、今川義元の姪である信康の母・築山殿は、この結婚を喜ばなかったと伝えられています。

 同年に元服し、松平次郎三郎信康と改めました。 かねてより築山殿と折り合いの悪かった徳姫は、 父信長に十二箇条の手紙を書き、築山殿とともに信康が甲斐の武田勝頼に内通していると訴えました。信長は、武勇で知られる信康の力を恐れたためか、築山殿と信康の処分命令を家康に下します。築山殿は護送途中に暗殺させられ、信康は幽閉先の二俣城で城主大久保忠世に無実を言い残しながらも父の命に従い、天正7年(1579) 9 月15日に切腹。享年21歳でした。

天正18年(1590)に小田原城主となった大久保忠世が、翌々年の文禄元年(1592)に信康を供養するための位牌所として建立したのが当寺清瀧山萬松院です。また、令和3年7月には、新たに「松平信康公供養塔」として石造五輪塔篤志家により落成寄進されました。

若くして死を遂げた信康の生涯は、悲劇の戦国武将として歌舞伎の演目や映画、テレビドラマなどでも取り上げられ、今に伝えられています。

 

以前に訪ねた服部半蔵のお墓にもこの物語が書いてあった。

sora101064.hatenadiary.com

「どうする家康」でももうすぐそんなシーンになるのかしら…

 

さて、風祭駅からもう一駅分、旧東海道を歩いて入生田駅へ。

神奈川県立生命の星・地球博物館を見学した。

神奈川県立生命の星・地球博物館

巨大な恐竜や隕石から豆粒ほどの昆虫まで、地球の歴史と生命の多様性がわかる博物館。たくさんの石が展示されていて、タモリさんが好きそう…なんて思った。

アンモナイトの壁とサガミジョウロウホトトギス

印象に残った展示二つ。

サガミジョウロウホトトギスは朝ドラ「らんまん」で見た!と思った。サガミと付くので、牧野博士が発見したのとはまた違う品種なのだろう。

www.nhk.or.jp

早川沿いをまたしばらく歩くと、小田原馬車鉄道・電気鉄道前田橋跡というのがあった。

小田原馬車鉄道・電気鉄道前田橋跡

小田原馬車鉄道・電気鉄道前田橋跡

明治21年 (1881)10月、国府津~湯本間に開通した小田原馬車鉄道の前田橋跡です。

馬車鉄道は、 湯本山崎の台地が越え難いため、 小田原の風祭から早川左岸の堤防沿いに走り、 湯本山崎でここ前田橋を渡って、 早川の右岸に出、 上流の落合橋で再び早川を渡りました。

この橋は、明治33年(1900) 馬車鉄道から電気鉄道に 代わっても使われましたが、 明治43年 (1910) 8月の大洪水で、 落合橋と共に流失し、大正2年(1913) に鉄道は現在とほぼ同じ山側を走るように なりました。

箱根町

右側のつり橋は今も「前田橋」と名が付いている。定員大人4名!渡ったけど、ゆらゆら揺れて怖い💦

 

さあ、もうゴールも近いと歩いていると、道端にこんなものが…

オトシブミだ。本物を初めて見た。一つ開いてみたが、とてもがっちりできていて驚いた。

www.forest-akita.jp

道端にしゃがみこんでいるおばさんを見て、通り過ぎる車も驚いたことだろう。

さぁ、いよいよゴールの箱根湯本駅が見えてきた。

箱根湯本駅

歴史も生物も建築もと、いろいろ盛りだくさんなプチ旅行だった。

10.6Km