スタートは大磯駅。東に向かって歩き出す。


大磯八景碑 「化粧坂の夜雨」
雨の夜は静けかりけり化粧坂松の雫の音はかりして
大磯八景は、明治40年頃、大磯町第5代町長宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書を出版したのが始まりである。その後昭和12年に大磯小学校第2代校長朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立した。現在は、「小淘綾の晴嵐」を、 除く「高麗寺の晩鐘」、「花水橋の夕照」、「唐ケ原の落雁」、「化粧坂の夜雨」、「鴫立沢の秋月」、「照ヶ崎の帰帆」、「富士山の暮雪」の7基が残っている

高来(たかく)神社
(高麗寺) 略緣起
古代: 大磯の東に聳える高麗山は昔より神宿る山として住民から信仰されて来ました。 創始神功皇后が三韓を討った後に、高麗山の上に神皇産霊神・高麗大神和光(高麗権現)を遷し祀り天下の平和をお祈りされました。後に瓊瓊杵尊・応神天皇・神功皇后が併せ祀られました。この高麗権現は箱根神社並び伊豆山神社に遷祀されております。
若光渡来 :天智七年(六六八)高句麗国が滅亡するや高句麗の王族若光は大磯の高麗に渡来して大陸文化を伝えました。霊亀二年(七一六)大磯を初め各地に渡来した高句麗人が若光を郡長として武蔵国高麗郡に移され開発を命ぜられました。
高麗寺の創建: 養老元年(七一七)僧行基がこの地を尋ね大磯の照ヶ崎の海中よりお上りになった千手観音菩薩を拝し本地佛と定められ高麗寺を創建されました。かくして神仏習合の聖地となり鶏足山高麗寺を別当寺とし長く信仰されて来ました。
中世: 鎌倉時代は幕府の厚い信仰を受け相模の大寺社に列せられ境内に二十四僧坊が置かれましたが、室町時代には高麗山は要害の地として重なる戦いの被害を受け白山社・毘沙門三重塔など多くの伽藍、寺宝が焼失されました。
江戸期 :天正十九年(一五九一)徳川幕府から御朱印地として寺領百石と山林を与えられ、寛永十一年(一六三四)東照権現(徳川家康)が勧請されました。そして天海僧上より寺十三条掟書を授かりました。参勤交代の殿様もお駕籠から降りて高麗寺の大鳥居の前で深々とお辞儀をして毛槍を下げて寺領内を静かに通り、領民の土下座はなかったと伝えられます。
近代: 明治の世となり神仏分離の政策により高麗寺は廃寺となり、明治三十年に高来神社と改称されました。現在旧観音本堂(下社)に遷座されています。千手観音菩薩を始めとする寺物は現慶覚院に安置されました。高来神社は古来より高麗、大磯の鎮守神として地域住民の平和と安全を御守護されています。
秩父の高麗神社はお参りしたことがあるが、こちらにルーツがあったとは知らなかった。後ろの山はハイキングコースになっているようだった。
ここからコースは来た道を西へと戻っていく。

おや、ここは河野太郎さんの地元か。。凛々しいお顔で

わあ、海だ!海が見えるとテンションが上がるのはなぜなんだろう。

大磯は日本最初の海水浴場だそうだ。
濡れた砂浜を歩きながら潮風を楽しんだ。サーファーが何人かいたが、この日の波は荒かった。


海辺を離れて国道に戻るとすぐに「新島襄終焉の地」という碑があった。最後はここで療養していたという。

新島襄終焉の地
明治の教育者新島襄は、1843年(天保14年)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男として生まれた。その当時は、近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1864年(元治元年) 函館から脱国して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国、多くの困難を克服して、翌年京都に同志社英学校を設立した。その後宿願であった同志社大学設立を企図して東奔西走中病にかかり、1890年 (明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。
同じく国道沿いに鴫立庵というのがあった。

鴫立庵
1664年(寛文4年)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、1695年(元禄8年)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となった。現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれている。崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石「著盡湘南清絶地」と刻まれていることから、湘南発祥の地として注目を浴びている。
心なき身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行法師)
このコースの副題に「俳諧」という言葉は入っているのに、出会うのは「短歌」ばかりだなぁ…といぶかしく思っていたが、ここが俳諧の道場なのか!と納得。
再び国道に戻り西に向かう。

東海道の松並木
江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商お伊勢参りなどに広く利用されました。
松並木は、今から400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主に保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたものです。
この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産です。
そして、最後のポイント「明治記念大磯庭園」に着いた。

「明治記念大磯庭園」のパンフレットから
積層する歴史を今日に伝える佇まい(風致)
大磯の海や山等の豊かな景観が別荘地として好まれ、伊藤博文ら先人たちも、邸宅からのこゆるぎの浜や富士山の眺めを愛でていたと考えられます。
本邸園には、明治期から昭和初期に至る様々な時代に建てられた和風、和洋折衷、洋風の別荘建築があり、白砂青松の景観を活かした庭園、こゆるぎの浜辺や東海道(国道1号)の松並木等の歴史的景観と一体となって、積層する歴史を今日に伝える佇まい(風致)を遺しており、湘南の邸園文化を象徴する歴史的遺産となっています。
現在は陸奥宗光別邸と大隈重信別邸が見られる。今後伊藤博文別邸や西園寺公望別邸も今後整備して公開されるようだ。


今、庭園を散策すると海岸沿いを走る車の音も聞こえるが、当時聞こえたのは波の音とトンビの鳴き声ぐらいだったのかもしれない。
明治の偉人たちは、この地で傷ついた心身を癒しながら、お互いに着流しで行き来し主義主張を越えて交流していたというが、わかるような気がした。
春の日の気持ちの良いハイキングだった。暑くなるまでにあと2,3回駅からハイキングに行けるといいなぁ…

9.0Km