歴史と季節を楽しむ謎解きハイキングin本庄 2022/04/17

駅からハイキングを利用したぶらぶら歩きもだんだんグレードアップして、とうとう新幹線で行くようになった。

あさま607号で本庄早稲田

 

本庄早稲田に降り立つと、おぉ、なにもないぞ!

最初に見えた建物が本庄早稲田の杜ミュージアムだった。この辺りからは埴輪がたくさん出土するようだ。

笑っているように見えるが威嚇の表情らしい

ミュージアムを出るとまたまた何もないところをひたすら歩く

牛さんもいる田園風景

しばらく歩くと畑の中に産泰神社(さんたいじんじゃ)があった。もともとは金鑚神社(かなさなじんじゃ)と言われていたようだ。昨今よくある支店の統廃合みたいなことがあったのかしら。

産泰神社

産泰神社

所在地 本庄市大字四方田二八九

産泰神社の創建は、鎌倉時代、武蔵七党のうちの一党である児玉党の一族の四方田五郎左衛門資綱が、この地に砦を築いたときに、守護神として勧請し祀ったのが始まりと伝えられる。その後の延元二年(一三三七)、北畠顕家が薊山合戦の際、戦勝を祈願したところ、勝利をおさめることができたので兜を奉納し深く感謝したという。
元禄年間(一六八八~一七〇四)にはいると京都吉田家の配下であった神主の杉田氏が奉仕するようになり、今でもその子孫は代代神主をつとめている。
なお、当社は女性の守護神として広く信仰を集め、毎年四月四日の例祭日には、近郷近在はもとより他県からも多くの参詣客が集まり、安産を祈って底のない柄杓を奉納する慣習がある。
なお、当日は本庄市指定文化財となっている杉田組による金鑚神楽が奉奏される。

昭和六十年三月
埼玉県
本庄市



 

ここから北へ向かって歩き、新幹線の線路と高崎線の線路を越えると、また金鑚神社があった。こちらは大きな神社だ。どういうことかしら。

金鑚神社

埼玉県指定文化財(有形文化財・建造物)

金鑚神社社殿

平成二十九年三月二十四日指定

 

金鑚神社は、中山道本庄宿の総鎮守として崇敬された神社です。 本庄実忠が弘治二(一五五六)年に本庄城を築いた際に、社殿の改造と神田の寄進を行ったと伝えられており、その後、本庄氏に代わって城主となった小笠原氏も当社を厚く信仰しました。当社には、小笠原氏が古河、ついで関宿へ転封となった後の寛永一六 (一六三九)年に、関宿城主小笠原忠貴が社殿を建立した際の祈願文が残されています。

現在の金鑚神社の社殿は、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、本殿は享保九(一七二四)年、拝殿は安永七(一七七八)年、幣殿は嘉永三(一八五〇)年の建築と伝えられています。建築年代の古い本殿は一間社流造で、壁面に彩色を伴う穏やかな表現の彫刻が、空間をもたせて配置されています。 建築年代の下る拝殿 は、入母屋造で、力強く密度の高い極彩色の彫刻で飾られています。幣殿は両下造で、その格天井には、武正南廬や小倉紅於ら幕末期の本庄で活躍した文人たちの天井画が描かれています。

埼玉県内の近世社寺建築は、彫刻装飾を多用する点に特色があ りますが、この本殿は壁面に彫刻が付く早い例で、県内における彫刻装飾の変遷を示す一つの指標として、高く評価されています。

平成三十年三月二十五日

埼玉県教育委員会 本庄市教育委員会

 

樹齢約350年と言われる金鑚神社境内のクスノキ

 

 

本庄は中山道の宿場町で、街道沿いに古い建物が残っている。

 

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

登録有形文化財

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

この建物は、明治二十九年に建設された旧本庄商業銀行の寄棟 瓦葺二階建の煉瓦造の倉庫です。 かつて中山道の宿場町として栄えた本庄町は、幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治十六年に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹のまちとしての発展を遂げました。

この建物は、明治二十七年に開業した本庄商業銀行で、融資の担保となった大量の繭を保管するために建てられました。絹産業が盛んであった本庄町の繁栄を伝える貴重な建物です。

この建物は、屋根をキングポストトラスで支え、鉄扉を備えた窓には、繭を保管するために通気性を配慮して漆喰板戸と網戸が併置され、床下にも鋳鉄製の枠を備えた通気口を設け ています。壁面には、深谷の日本煉瓦製造の煉瓦が用いられ、当時一流の技師の設計による明治期を代表する近代的な建造物です。

平成二十五年三月

本庄市教育委員会

 

旧本庄警察署

埼玉県指定文化財

 旧本庄警察署

この建物は、明治十六年(一八八三)に本庄警察署として建てられた洋風建造物で、県内に残る貴重な近代化遺産の一つです。

木造二階建て、瓦葺きの漆喰塗り大壁造りで、正面二階のベランダにはアカンサスの葉を彫刻した木製列柱を設け、さらに洒落た手摺り金具も取り付けられています。またベランダ出口には半円窓が設けられ、室内には天井の灯火掛け部分に円形のレリーフが施されるなどモダンな造りが特徴となっています。

昭和十年(一九三五)に警察署が移転した後も、本庄消防団本部、簡易裁判所区検察庁、本庄公民館、本庄図書館として利用され市民に親しまれました。この間、何度か改修が行われ、外観が一部変化しまし たが、昭和五十五年(一九八〇)に建築当初の姿に復元整備され、歴史民俗資料館として開館し現在に至っています。

平成28年3月

本庄市教育委員会

 

田村本陣の門

この門、皇女和宮が御降嫁の際にくぐったといわれる。

中山道本庄宿

この後、高崎線本庄駅を通って南下し、本庄早稲田駅を目指す。

ゴール近くにマリーゴールドの丘公園があった。(マリーゴールドは咲いてなくて、芝桜の丘だった。)ここは昔、埴輪を焼いた登り窯だったようだ。

マリーゴールドの丘

埼玉県指定史跡

宥勝寺裏埴輪窯跡

平成二十一年三月十七日指定

宥勝寺裏埴輪窯跡は、古墳に立て並べるための埴輪を焼いた窯の跡で、この解説板の正面に見える大久保山丘陵の斜面に所在しています。平成十三年に、窯跡の範囲を確認するための調査を実施したところ、全部で五基の埴輪窯跡が、良好な状態で残されていることがわかりました。

④窯の形は、丘陵斜面の傾斜を利用してつくられた半地下式の登り窯で、長さ七メートル前後、幅一・五メートルほどの大きさがあります。一番下の部分に燃料の薪を入れるための焚口があり、その手前には作業を行うための平らな部分が広がっています。窯の内部には薪を燃やす部分や薪の炎で埴輪を焼く部分があり、一番上のところに煙を外に出すための穴が開いています。また、窯の周辺には、材料となる粘土を採掘する場所や、 埴輪を造形する工房などの施設もあったと考えられます。

窯のまわりからは、人物埴輪や馬形埴輪のほか、矢を入れる武具の一種「靫」、威儀具のひとつで大きな団扇のような形をした「翳」など、さまざまな形の埴輪が出土しました。これらの遺物から、宥勝寺裏埴輪窯が操業していたのは、六世紀後半ころと推定されています。この埴輪窯が立地する大久保山丘陵やその周辺の台地上には、数多くの古墳が築かれています。宥勝寺裏埴輪窯で焼かれた埴輪も、この近くの古墳に運ばれ、立て並べられたことが推測されます。

平成二十二年三月

埼玉県教育委員会 本庄市教育委員会


今回の旅の特典として、「運転手・車掌シミュレーター体験ご招待」というのがあった。応募条件は、このコースの謎解きに正解すること、新幹線に乗ってくること。。。

当たったら、孫が喜ぶぞ~と勇んで参加したが、帰宅してからアプリの参加ボタンをポチっていなかったことに気づいた。あ~ なんてこった! 

 

約9.7Km

 

おまけ… 旧本庄商業銀行煉瓦倉庫でもらった赤レンガの建物の番付表。訪ねる楽しみができました。