文化の足跡をたどる~「文の京」に山あり谷あり学びあり 2024/9/23

 

やっと涼しくなった~ さぁ、歩かなくては。

この日の出発は日暮里駅。

文政十二年(一八二九)に成立した『御府内備考」』には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年『東京府志料』には、長さ十五間(約二七・三メートル)幅二間(約三・六メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。

お彼岸の中日でこう天気が良ければ、善男善女はこぞってお墓参りに行くでしょう。

コンビニの店先にもお供え用のお花がいっぱい

 

谷中の商店街もずいぶん観光客向けになっているようだ。

人であふれているという鎌倉より楽しいに違いない。

私はこんなところで110円の小物を漁った。

 

少し歩いて根津神社をお参りした。

こちらも外人さんがいっぱい

 

東京大学の裏手に「お化け階段」というのがあった。

どこがお化けかというと…

途中で大きく曲がる約15mの階段。最下段の高さがとても低く、下るときには1段と数えられないために「上りと下りで数が違う階段」としてこの名がついた。

これじゃ上るときだって数えないに違いない。。

 

そのすぐ近くに「サトウハチロー旧居跡」という看板があった。

後ろの立派なおうちにはどなたか住んでおられるようだったので写真には入れなかった。

 

次に大通りに出ると、「弥生式土器」の発見地 の看板があった。

弥生式土器」の発見地  国指定史跡  弥生二丁目遺跡

弥生式土器」の発見 

明治十七年、東京大学坪井正五郎白井光太郎と有坂绍蔵の三人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼の壺 を発見した。これが後に、縄文式土器と異なるものと認められ、町名をとり「弥生式土器」と命名された。 

発見地はどこか 

弥生式土器」の発見地は、その後都市化が 進むなかではっきりしなくなり、謎とされてきた。推定地としては、次の三か所が指摘されている。(左の図参照)

東京大学農学部の東外側(サトウハチロー旧居跡付近)

農学部と工学部の境(現在地付近)

③ 根津小学校の校庭裏の崖上

弥生二丁目遺跡の発掘

(図の④の地点)昭和四九年春、根津小学校の児童が、東大構内旧浅野地区の工学部九号館わきで倒れた木の根元から土器片や貝殻を採集した。これがきっかけで発掘調査が 行われ、二条の溝と貝層、弥生式土器等が検出された。都心部における 弥生時代の数少ない貝塚を伴う遺跡として重要であることが評価され、 昭和五一年に弥生二丁目遺跡として国の史跡に指定された。 しかし、「弥生式土器」の発見地は、特定するにいたっておらず、現在も調査研究がすすめられている。

 

地図省略

 

文京区教育委員会 平成22年3月

なるほど、それでサトウハチロー旧居跡が重要なことがわかった。でも、発見した場所がわからなくなるなんてね~

次に東大の正門・赤門前を通って小石川後楽園に向かった。

4人組のおばさまたち、正門前でご機嫌で自撮りをしていらっしゃった。

 

小石川後楽園は今は目を引くものがあまりない季節だ。

田んぼの番をしている黄門さま   怖い!

 

彼岸花と睡蓮

サギたちものんびり

入場料120円で、撮るものがないなんて文句は言えないな、と思ったことだった。

 

6Kmぐらいかなぁ