横浜、もう一つの姿の魅力に迫る~港町発展の歴史探訪 2022/11/06

この日のスタートは横浜駅。駅の時計もおしゃれだ

 

 

船着き場(?)には早くもクリスマスツリーが…

みなとみらい地区をちょっとだけかすめて古い神奈川へと向かう。

 

青木橋は、八ツ山橋と並ぶ日本初の跨線橋だそうだ。

下を東海道本線とか京浜東北とか横須賀線とか湘南新宿ラインとか上野東京ラインとか京浜急行が(ふぅ…) 次々と通り、見飽きることがない。孫のためにしばらく動画を撮った。いつの間にか撮り鉄ばばぁだ。

 

その青木橋から見上げる高台に本覚寺がある。(いつかブログに載せた気がする…)

本覚寺

本覺寺

本覺寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(一五三二)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。 開港当時、ハリスは自ら見分け、 渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことができる本覺寺をアメ リカ領事館に決めたという。

領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。

 

本覚寺のほど近くには三宝寺が

三宝

三宝

三宝寺は、瑠璃光山と号し、浄土宗に属す。慶長二年(一五九七) に寂した嘆誉和尚の草創である。

弘法大師の作と伝えられる薬師如来立像を本尊としていたが、関東大地震で被害を受け、第二次大戦で焼失した。 現在の本尊は、その後、東京芝の大本山増上寺より遷座したものである。

当時で忘れてならない人物として第二一世住職弁玉和尚がいる。和歌を橘守部・岡部東平に学んだ弁玉は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人である。

 

高島山トンネル

かつては東急東横線が走行していたが現在は歩行者専用になっている。通り抜けて見上げるとさっき訪れた三宝寺の下を通っていたことがわかった。

 

大綱金刀比羅神社

大綱金刀比羅神社と一里塚

この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にあった。 その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。

また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。 この塚は、日本橋より七つ目にあ たり、土盛の上に樹が植えられた大きなものであった。

 

田中家

神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、 文久三年(1863年) 創業の田中家です。

田中家の前身の旅籠 「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」 にも描かれた由緒正しき店名です。 高杉晋作やハリスなども 訪れました。

 

坂本龍馬の妻 「おりょう

おりょう」が田中家で働き始めたのは明治7年。 勝海舟の紹介で働いていたと伝えられています。 英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、 外国人の接待に重宝されていました。

おりょうさんは英語が話せたんですかぁ。すごいなぁ

 

神奈川台の関門跡

神奈川台の関門跡

ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(一八五九) 横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門番所とともに廃止された。  

 

神奈川宿歴史の道

この絵の中ほどが青木橋なので、歴史の道の西半分を歩いてきたようだ。

横浜開港当時にできた橋をいくつか通り再び線路を越える。

 

平沼神社

平沼新田と平沼神社(水天宮)の由来

平沼新田は帷子川下流地帯の新田のうち、江戸時代の最後に、その最先端に開かれた。今の平沼一・二丁目西平沼 町あたりである。 平沼家は、常陸(茨城県)の出身で、明暦 年間(一六五五年~一六五八年)に保土ヶ谷宿に移って代々造酒業を営んでいたが、天保十年(一八三九年)五代目平沼九兵衛が埋立を始め、七代目九兵衛のときに大成した。七代目 九兵衛は二十才の時、文久三年(一八六三年)平沼新田に移住し、新田開発のかたわら製塩業を営み、明治に入ってもなお新田の築造を続けた。 平沼神社は天保十年九月五日に 五代目九兵衛が新田の守護神として創建した。もとは水天宮と称したが、明治の初年に平沼神社と改称し村社に列せられた。言い伝えによると、この新田の住民の多くは製塩業に従事していたが、或る日その一人が海水取り入れの水路に水天宮の御札(御霊)が流れ着いているのを拾い挙げこれを地主の九兵衛が神の啓示とその場所(今の元平沼橋のあたり)に祠を作って水天宮を祭ったのが初めである。その後、市街の発展によって、三度も位置を変え、大正二年 (一九一三年)に今の境内に社殿を造営し現在に至っている。 水天宮は、「水徳の神」として安産や水難・火災よけに霊験があるとされることから、大正十二年九月一日の大震災に四辺は猛火の中に包まれたが、危く奇蹟的にも厄を免れたと言われ、また、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲にも難を免れている。 大祭は九月五日に催されるが、正月五日の「湯の花神事」(湯行事)は特に有名である。神主が大釜の熱湯に浸した笹茶を持って参詣人の頭上に放撒する。この熱湯を浴びた者は、その年は無病息災とされる 。

祭神は天之御中主大神安徳天皇 

昭和五十四年 六月 西区観光協会

 

この水天宮さま、裏口の鳥居は幅が普通の倍ぐらいあっておもしろかった。車が通れるように、かしら。。

 

戸部杉山神社

コースも終わり近くのこの神社に着いたところで、ハイキング参加中のおじさん二人組が「ずっとあなたについてきた」などとおっしゃって笑わされた。道を間違えなくてよかったこと!

 

桜木町に出ればゴールだが、今の横浜も見たくなり、みなとみらいまで足を延ばした。

日本丸と観覧車

,汽車道

上に見えるのがエアキャビン。気持ちの良い遊歩道を歩いて向こう岸にわたり、あれに乗って帰ってくることにしよう。

 

8人乗り(だったかな?)のキャビンを独り占めして、またまた孫のためにずっと動画を撮ってきた。

近未来的な風景で、ラスベガスには行ったことがないけれど、ここにカジノを作りたかったというのがちょっとわかる気がした。

 

11.2Km