文豪たちの跡辿り 2022/02/12

今年の冬は寒いですね!

通勤途中の公園の河津桜がまだ咲かない。去年の今頃はもう3分咲きぐらいだったのに。

 

駅からハイキングもちょっとお休み気味だったけれど、久しぶりに参加してみた。スタートは水道橋駅だ。

 

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小石川後楽園はコロナで休園中。一方遊園地は稼働していたようだ

春日通りに出ると銀色の標識を埋め込んだ床屋さんがあった。ここに石川啄木が住んでいたんだって

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喜之床跡

 

啄木ゆかりの喜之床(きのとこ)旧跡
石川啄木は、明治41年(1908) 5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地 (本郷5-5・現 オルガノ会社の敷地内) にあった赤心(せきしん) 館に金田一京助を頼って同宿した。 わずか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。 やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治42年(1909)の6月であった。
五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。
喜之床での生活は2年2か月、明治44年の8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5-11-7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治45年(1912) 4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。
喜之床(理容アライ)は明治41年(1908) の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和53年5月 (1978) 啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。 旧家屋は、昭和55年(1980)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地に標識を設置した。


かにかくに渋民村は恋しかり
おもいでの山
おもいでの川  (喜之床時代の作)


文京区教育委員会
平成4年10月

 

本郷三丁目を左折して本郷通りを北へ向かう。右側はずっと東大の敷地だ。周辺には「安くて旨い!」系の飲食店が多い。若い人たちのおなかを満たしているのだろう。

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東大 赤門

1kmほども歩いてやっと東大の敷地際を離れた。右折すると根津神社に下る坂道だ。

 

 新坂(権現坂・S坂)
文京区根津一丁目21と28の間
本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。
森鷗外の小説『青年』(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・ 右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。・・・」とある。
旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説『青年』を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。
したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鷗外命名である。根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。

文京区教育委員会
平成14年3月

 

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根津神社 唐門とつつじ苑

根津神社の社殿(権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門)は、1706年の造営以来、欠けずに現存しているとのことだ。つつじ苑の中に徳川家宣胞衣塚というのがあった。

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徳川家宣胞衣塚(えなづか)

胞衣とは胎児を包んでいた膜と胎盤のこと。ここに将軍様胎盤が埋まっているらしい。。

 

根津神社を北側に抜けると間もなく夏目漱石旧居跡がある。

今は建物はなく、石碑と2匹の猫のオブジェが目印となっている。

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夏目漱石旧居跡

夏目漱石旧居跡(区指定史跡)
日本医科大学同窓会館 文京区向丘2-20-7
夏目漱石 本名・金之助。慶応3年~大正5年(1867-1916)。小説家。この地に漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった。(家主は東大同期の斎藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石はこの地で初めて創作の筆をとった。その作品「吾輩は猫である」の舞台として、“猫の家”と呼ばれ親しまれた。この地で、「倫敦塔」「坊ちゃん」「草枕」などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。漱石文学発祥の地である。
漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は、ここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。
二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。

文京区教育委員会
平成7年3月

 

ここに森鴎外も住んでいたとの記述の通り、すぐ近くの団子坂上に旧居(観潮楼)跡がある。観潮楼…かつて品川の海が見えたとのこと、驚きだ。現在は森鴎外記念館となっている。写真を撮り忘れたので、URLを貼っておこう。

文京区立森鴎外記念館 - 文京区立森鴎外記念館

 

さて、このあと駅からハイキングのコースは北西へ進路をとって六義園に向かうのだが、後楽園と同じく閉園中と思われるし、おなかも空いたので、上野へ行くことにした。団子坂を下って、谷中を通り抜ければ東京国立博物館だ。

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レストランゆりの木で カキフライ御膳を

 

この日の行程は約8.3Kmでした。

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