梅雨の合間の坂道巡り(2)

 

第二弾は麻布の台地から麻布十番・六本木方面へ。けっこうあるな~

(写真のキャプションは標識に記してある説明文を借用しています)

 

 

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せんだいざか 坂の南部一帯が,仙台藩伊達家の下屋敷であったところから,その名に呼ぶことになった。

仙台坂を下っていくと右側に韓国大使館がある。

 

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なんぶざか 有栖川宮熾仁宮記念公園の場所が赤坂からうつってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。

 左側の壁はドイツ大使館。サッカーワールドカップの時には過去の名シーンがこの壁に描かれたりする。好敵手のアルゼンチン大使館は仙台坂の頂点に近い。

 

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いっぽんまつざか 源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち, 古来植えつがれている一本松が坂の南側にあるための名である。

 どうしてもうまく写真が撮れない位置に標識があり、電話ボックス(今では貴重!)が主役になってしまった。ここを頂点として暗闇坂と大黒坂に分岐して下る。

 

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くらやみざか 樹木が暗いほどおい茂った坂であったと言う。以前の宮村町を通るため宮村坂ともいった。

 今でも暗い。下っていく途中右側にオーストリア大使館がある。

 

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だいこくざか 大国坂とも書く。坂の中頃 北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。

麻布十番へと下っていく道。

 

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しちめんざか 坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に 七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。

大黒坂から分岐している。

 

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きつねざか 港区元麻布二、三丁目境で長玄寺前へ下る坂。昔は寂しいところで、狐が時々人を化かしたという。

中国大使館の南側にある狐坂。

 

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たぬきざか  人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。

狐坂を下りきってしばらくすると狸坂の上りが始まる。昔の人は、次々と現れる敵(狐や狸)をやっつけながらこの道を通ったのかしら。化かされたらゲームオーバーみたいな?

 

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とりいざか 江戸時代のなかばまで坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688-1703)ごろ開かれた道である。

 すごい勾配である。雪の日は休校になるかもしれない。

 

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おたふくざか 坂の傾斜が,途中でいったんゆるやかになって,また下ったので,顔のまん中の低い お多福面のようだと 名づけられた。

 上りきったところにフィリピン大使館がある。

 

 

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ながさか 麻布台上から十番へ下る 長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが,その確証はえられていない。

 永坂と言えば蕎麦!近くに「永坂更科発祥の地」の石碑がある。

もちろん、お蕎麦屋さんも麻布十番に何軒かある… (どれが本家か元祖かわからないが)

 

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たんばだにざか 元和年間 旗本岡部丹波守の屋敷ができ,坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き,谷の名から坂の名称とした。

 

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いちみざか 明治二十年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直邸のあった三河台町との間で両頭文字をとった。


 

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なだれざか 流垂・奈太礼・長垂などと書いた。土崩れがあったためか。幸国(寺)坂,市兵衛坂の別名もあった。

 右側は住友不動産オフィスビル。土砂崩れが起きないといいよね~

 

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よせざか 坂の途中の北側に,明治から大正3年にかけて,福井亭という寄席があったために 寄席坂 とよびならわすようになった。

なだれ坂と並行するように 六本木通りから分岐するが、こちらは明治から大正ということなので新しい名前ですね

 

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いもあらいざか 正しくは麻布警察署裏へ上る道をいったが,六本木交差点への道が明治以後にできてこちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。

 ご存じ、芋洗坂!次の饂飩坂とともにどこがそれなのか、諸説あるようだ。

いずれにしても、大繁華街六本木でこの標識など誰も見ていないかもしれない。

 

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うどんざか 天明年間末(1788)頃まで 松屋伊兵衛という うどん屋があったために,うどん坂と呼ぶようになった。  昔の 芋洗坂 とまちがうことがある。



さて、六本木まで来ました。続きはまた!