葛飾北斎が愛したまち「すみだ」をめぐる 2022/05/29

この日は、定例の包丁研ぎ。研ぎあがるのを待つあいだに近場で駅からハイキングをひとつ。

 

出発は両国駅だ。隣接する両国観光案内所には土俵がある。

-両国-江戸NOREN

駅から南へ少し下って、最初に訪れたのは勝海舟生誕の地、公園の中に記念碑がある。

勝海舟生誕の地

その隣のブロックには両国小学校があり、芥川龍之介文学碑があった。この小学校の卒業生だそうだ。

芥川龍之介文学碑の説明

 

そのまた隣のブロックには吉良邸跡。そのあいだのマンションの谷間に相撲部屋もあったりして、狭い範囲に見どころ密集だ。

吉良邸跡

大通りに出るとすぐに回向院がある。非業の死を遂げた多くの人々、遊女や水子や動物たちまで、生き残った者たちが哀れに思う気持ちがひとところに集まったお寺なのだ。

回向院

回向院

明暦三年(一六五七)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は 十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。 そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、 その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。

有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、 「諸宗山無縁寺回向院」 と名付けられ、後に安政地震関東大震災東京大空襲など様々な天災地変人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。

墨田区

 

再び両国駅に戻って、今度は北へ。お相撲さんの姿がちらほら。解説でおなじみ、北の富士さんの姿も見かけた。この日は安美錦関の引退公演だったようだ。

両国国技館

さらに北へ行くと旧安田庭園だ。ここに刀剣博物館もあって、たぶん、人気なのだろうと思うが入らなかった。

旧安田庭園からスカイツリーを望む

旧安田庭園に隣接するようにお寺のような大きな建物が見えた。関東大震災東京大空襲の犠牲者16万3千人の遺骨を祀る東京都慰霊堂だそうだ。ここ下町には悲しい歴史が積み重なっている。

横網町公園東京都慰霊堂

 

南へ下ると江戸東京博物館があるが、現在休館中なので、近くのすみだ北斎美術館へ行った。

常設展しか見なかったが北斎と娘阿栄の様子を表した「北斎のアトリエ」再現模型が見どころだったかな… (この北斎、動くのですよ、びっくり)

北斎のアトリエ

最後に、またまたお相撲関係。

野見宿禰神社

野見宿禰神社

かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。

明治十八年(一八八五)に親方の高砂浦五郎が、 津軽上屋敷の跡地であったこの地に、 相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。

石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。

境内には、昭和二十七年(一九五二)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、 初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代柏戸剛以降の名前が 刻まれています。

墨田区

 

このあとの行程を省いて錦糸町駅へ向かったので、全部で約5Kmでした。

 

たまには読書でも(2)

歳をとったからって老け込んではいけないぞと、どこからかのお勧めがあり、図書館で次に借りたのは「くそじじいとくそばばあの日本史」

かわいいおばあちゃんになりたい私としては、ちょっと手に取るのに抵抗のあるタイトルではあったが、内容は面白く、若い世代に迎合することなく気概を持って生きていけ~と背中を押された気がする。

単なる個人の考え、感想でそう述べているのではなくて、たくさんの古典を読み解き、かみ砕いて見せてくださるのがありがたい。

このような研究・調査にどんなに時間がかかることか。作者さんがご自分のブログでおっしゃっているように、(真面目に)物書きで食べていくなんてできないことなんだろうなぁ…

今回は図書館で借りちゃってごめんなさい (^^ゞ

 

たまには読書でも…

最近、本を読むということがめっきり少なくなった。

子供の頃は本が好きだったけどなぁ… (特に図鑑)

図書館も久しくご無沙汰で、先日行ってみたら「この利用者証は完全に削除されています」と言われてしまった。そこで新しく作り直し、新たな読書人生の第一歩を踏み出すことにした。大げさな決意の割にはかわいい本を借りてしまったが…

 

www.kagakudojin.co.jp

面白かった項目

・ニンジンを食べると、暗闇でも目が見えるの?

ニンジンを食べることで視力が改善されるのはビタミンAが欠乏しているときだけで、それ以上に必要ない。ニンジンが視力を改善するという考えは、第二次世界大戦中に流されたウソの情報が根付いてしまったものだという。そのウソとは、イギリス軍が新しいレーダー装置を使ってドイツ軍の爆撃機を撃ち落としたが、そのレーダー装置の存在をドイツ軍に隠しておくために、イギリス軍のパイロットはニンジンを食べて夜間の視力をよくしているのだと言ったんだって。

・生のインゲン豆にはどうして毒があるの?

知らなかった!生の赤インゲン豆4,5粒を食べただけで3時間以内に中毒症状が起きるそうだ。

・歯磨き後のオレンジジュースは、どうして苦いの?

練り歯磨きに含まれるラウリル硫酸ナトリウムが、口の中の甘みを感知する受容体を抑え、苦みを感知する受容体を抑えている生体膜を変化させるから。この効果は30分間は持続するらしい。ラウリル硫酸ナトリウムが含まれていない歯磨きを使えば大丈夫。

・ビール瓶はどうして褐色のガラスなの?

ビールが光にさらされるとMBTと呼ばれる化合物が生じるが、MBTはスカンクが放つにおいに含まれる化合物と構造が似ており、同様に不愉快なにおいがするんだって。

・ジャムはどうして固まるの?

ジャムを固まらせるには、ペクチン・砂糖・酸の三つのバランスが重要なんだって。ペクチンは知っていたけど、砂糖や酸は味や保存のためだと思っていた。

 

この本は、見た目はかわいいけれど、化学ではおなじみの亀の甲や舌を噛みそうな物質名がたくさん出てくる。どんなことにも科学的根拠があるのだ。一流料理人の職人技もきっと科学で説明がつくに違いないと思わせてくれる。

中には日本ではあまり聞いたことがない言い伝えのようなもの

例えば…

七面鳥を食べると眠くなるの?

・チーズを食べると本当に悪夢を見るの?

なんていうのもあって、面白かった。

 

 

 

霧降り(魔王)の滝を目指して ~早春、湘南ひらつかに広がる美しい里山散策と歴史探訪~ 2022/05/03

日差しは強いが暑くもなく寒くもなく、最高のお天気の旗日。湘南平塚を目指した。

江戸時代に整備された東海道五十三次、平塚宿は7番目の宿場だ。

国道一号線沿いにはそれにゆかりの説明板などが続く。

平塚宿の江戸見附

平塚宿の江戸見附

平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。

本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。

平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約一・五キロメートル)、東から十八軒町・ 二十四軒町・東仲町・西仲町柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東西の問屋場二箇所、高札場、 旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。 

一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。

平塚宿江戸見附は、長さ約三・六メー トル、幅約一・ 五メートル、高さ約一・ 六メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。

平成十三年(二〇〇一年)十月

平塚市

 

神奈川銀行平塚支店前にはこの企業が建てた記念碑もあった。

平塚宿本陣旧蹟碑 

海道宿駅の高級旅館で徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい これに次ぐものを脇本陣と呼んだ

東海道平塚宿の本陣は 代々加藤七郎兵衛と称し現在の平塚二一〇四番地神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた

 総槻造 間口約三〇米 奥行約六八米

 東に寄って門と玄関があり 天皇や将軍大名などの御座所は上段の間であったという

記録によると 徳川十四代将軍家茂は文久三年二月 元治二年五月の二回ここに休憩している

また明治元年十月と同二年三月の両度 明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休された

このたび 平塚支店改築にあたり旧跡碑を建てて永く記念とする

昭和四十七年の秋

神奈川相互銀行取締役社長 半田 剛 撰

 

要法寺

要法寺境内には蓮鉢がたくさん置いてあった。今年の大河ドラマとも関係がありそうなお寺だ。

日蓮大聖人御一泊御説法霊場

松雲山要法寺縁起

当山は鎌倉時代、幕府の執権北条泰時の次男北条泰知の屋敷でありました。

泰知は日蓮大聖人に帰依し、平塚左衛門尉泰知と呼ばれ人々に尊敬され、この地において地頭をしていました。 弘安五年九月八日未明、泰知は 夢枕に「日蓮聖人が十六日平塚にご来臨される」という七面天女のお告げを受け、平塚の主だった人々百六十余名と共に日蓮聖人を出迎え、この地にご宿泊をいただきました。その夜日蓮聖人が法華経神力品「四句要法」の一節を御説法したところ、邸内にあった平 真砂子 の塚(平塚の塚)にそびえ立つ老松に、紫雲がたなびくという瑞相があらわれました。 それを見た一座の面々は、お題目を唱和し法華経の信者になったのでした。 わけても泰知は深く感動し、自らの館を献上して寺とし、日蓮大聖人より「紫雲の瑞相」にちなみ 「松雲山」一夜説法「四句要法」にちなみ「要法寺」との山号と寺号をいただき当山は開山されました。 時に弘安五年(一二八二年)九月十六日 日蓮大聖人御入滅、二十数日前の事でした。

開祖 日蓮大聖人

二祖 九老僧 形善院日澄上人

三世 開基 松雲院日慈上人(平塚左衛門尉泰知)

 

ここから市街地を離れて山の方へ向かっていく。

妙覚寺四脚門

神奈川県指定重要文化財

妙覺寺四脚門 一棟

昭和四十八年十二月二 十一日指定

四脚門とは、本柱筋の前後に各二本、計四本の控柱を立てるところから、この名があります。

妙覺寺の四脚門は、大正十二年の関東大震災前には扉もあり、茅葺で、黒く塗られていたため、「黒門」とも呼ばれていました。

斗栱の背は高く、蟇股の形等も室町時代末の形式を示していますが、実年代は桃山頃と推定されます。

鎌倉地方の室町末から江戸初期頃の四脚門が宗派を問わず禅宗様であるのに対し、この四脚門は親柱の上部の頭貫や台輪など、部分的に禅宗様を取入れていますが、全体の意匠は軽快な和様の風があり、西相模における室町末から桃山時代の建築様式の一端を伝える貴重な門です。

令和四年三月

平塚市教育委員会

 

丘陵地帯のハイキングコースをとことこ歩くと分かりにくい道しるべが(笑)

 

八剱神社

これは上吉沢の方だったかな。

この神社の向かい側の丘にへばりつくようにカラフルな三角屋根のおうちがたくさん見えた。

湘南日向岡住宅っていうんだって

東急電鉄が開発した住宅地で、新幹線の車窓からよく見えるらしい。

 

ハイキングコースをさらに進むと吉沢の池に出た。

吉沢の池

吉沢の池

この池は、日之宮山 (標高約150m) を水源とする宮下川 の水を溜めた池で、広さは 49m×30m、水深は約10m。昭和10年 (1935) に食糧増産を目的として作られたもので、水不足のたびに利用されている。 なぜこのような溜池が必要かというと、 吉沢の山々は、鷹取山レキ岩層と呼ばれる大変硬い岩盤からなっているため、 この地域の降水は、地水とならず地表水となり、乾燥期には水量が極めて少なくなるからである。

池の周囲にはベンチがいくつかあり、ハイキング途中で休憩できるようになっていた。

そこに腰かけていたおじいさんが「私、車で来ているのでよかったら茅ケ崎までお送りしますよ」と隣のベンチのおばあさんをナンパしていた。( *´艸`)

 

 

さらに狭い山道を進んでいくと、目指す霧降の滝に着いた

霧降の滝

高さ12m、水量の多い時はまるで霧のように流れ散るのだそうだ。

ここからは舗装された道に出て下山する。

 

松岩寺

松岩寺裏手の墓地からは湘南の海や三浦半島まで見渡せる絶景だった。

 

ジェラテリア ベガ

最後はジェラートをいただいて今日の行程はおしまい。この後、バスで帰路についた。

 

10.3Km

 

おまけ

父の兄(もう両方とも故人)は農林省に籍を置く学者さんだった。私たち子供は「平塚のおじちゃん」と呼んでいた。おじちゃんも私の両親も若い頃、子供連れでお互いを訪ねたりしたのだろうが、私の記憶に残っている平塚の情景はない。幼過ぎてなにも覚えていなかったのだろう。「七夕まつり」や「大磯海水浴場」が言葉として浮かんでくるのは、その後両親が「あの時はこうだったね」と話していたのを記憶しているのかもしれない。

今回、平塚を訪ねて、おじちゃんはどこにいたのだろうと思って調べてみた。「平塚市総合公園は旧農林省果樹試験場跡地だった」との記述があり、ああ、きっとここだと思った。農林省果樹試験場は昭和52年に筑波研究学園都市に移転したようだ。

そういえば、「平塚のおじちゃん」はいつの間にか「つくばのおじちゃん」になっていたっけ。

匝る☆瑳やかハイキング~福箕の里・木積のフジを見に行こう~ 2022/04/30

来たぞ~千葉県! 遠かった~

 

帰りの電車は… え~ 1時間に1、2本だ! いつもならJRのコンビニNewDaysでお茶とおにぎりを買って出発するのだが、それもない。(^^;

スタートが「そうさ観光物産センター」だったので、そこで地元のお母さんが作ったようなお弁当を買って、さぁ、出発!

 

八重垣神社

八重垣神社祇園祭は300年以上の歴史を持つ伝統的な神事で、千葉県を代表する祭りのひとつだそうだ。

 

鶴泉堂(国の登録有形文化財

八重垣神社神社周辺の商店街には昔と今をつなぐ懐かしい街並みが…

 

八日市場城跡

まさか、これがお城ではないでしょうが、上るとはるか太平洋まで見える天神山公園の展望台(?)

 

弁財天

 

老尾神社

鬱蒼とした林の中にある神社らしくない建物の神社。古くから匝瑳明神と言われ祀られていたという。

匝瑳市指定史跡
式内社老尾神社 五三二九平方メートル
平成二十五年二月二十一日指定

平安時代の「延喜式」に、香取神宮などに次いで小社【老尾神社】として記載されている。

現在の境内地については、江戸時代の「下総名勝図絵」に絵図として見られ、「延喜式」から続く神社であると由来が書かれている。
匝瑳郡として式内社は一社であり、後には匝瑳郡の総鎮守となった記録もあり、歴史的に重要なものである。

平成二十六年三月
匝搓市教育委員会

 

爪かき地蔵

千葉県指定有形文化財  中台板石塔婆
(建長五年在銘)
指定 昭和三十二年(一九五七)十月二十一日

管理者 中台区
材質砂岩
高さ一・五二メートル 幅〇・八五メートル
厚さ 〇・ニーメートル
板石塔婆は、鎌倉時代から江戸時代に至るまで作られた仏教の塔婆の一種で、一般に「板碑」といわ れています。
この塔婆は、表面に地蔵菩薩立像が線刻され、裏の面には「建長五年癸丑卯月八日願主僧実性敬白」 (一二五三)の銘が刻まれています。現在は小さなお堂の中に安置されており、やわらかな線刻で描かれていることから「爪カキ地蔵」と呼ばれて土地の人々に親しまれています。 なお、この塔婆はその由来、紀年銘、製作年代、性格についてなお研究する余地を残しており興味深いものです。
平成十一年三月三十日
八日市場市教育委員会

 

松山神社

すがすがしい新緑の中の立派な社殿。創建1200年を超える歴史ある神社で、樹齢800年超の大杉がそびえている。

掃き掃除をしていた宮司さん(?)が、時間があれば社殿を一回りして見て行ってくださいと声をかけてくださった。

後ろから失礼!こちらが神様のいらっしゃる本殿なんですよね

 

裏庭に咲いていたウラシマソウとオドリコソウ

 

次に目指すのは藤の花咲く木積地区だ。

”ふじの里”木積地区では、随所で数百本を数えるフジの花々が見られます。特に龍頭寺では、樹齢100年を超える立派な大フジが見られます。
同地区には、300年前からシノダケとフジを材料として箕を製作する技術が伝えられており、「木積の藤箕製作技術」は国の重要無形民俗文化財に指定されています。
毎年フジの咲く時期に合わせて5月の連休を中心に、元禄時代福箕ふくみを創造された加納おせん様への感謝とフジの木への御礼を込めて「おせん様のふじ祭」が開催されます。

匝瑳市ホームページから

 

水をたたえた田んぼではカエルが鳴き、空からはウグイスの声が聞こえる。藪に野生の藤が絡みついて咲いている。だんだん人の手で育てられた藤棚が見えてきた。

 

さらに登ると「おせん様のふじ祭り」という会場に出た。一面に枝を広げた大きな藤の樹の下は甘い香りと蜂の羽音が満ちていた。

 

ふじ祭り会場からほど近くにある龍頭寺にも立派な大藤があった。樹齢100年だそうだ。

藤の花に埋もれるカメラマンさんを隠し撮り

 

ちょうどいい時期にこれだけの藤の花が見られて満足、満足。

再びカエルとウグイスの声を聞きながら田んぼの間を通っていく。

この小さな矢印がなければどっちがどっちだかわからないよ~

人もいないし、道も怪しいし、どうなることかと思ったが、何とか国道に出て一安心。

あとは駅を目指してひたすら歩くのみ!一時間に一本の電車に間に合うか?

 

ちょうどいいタイミングで駅に到着~。12.4Kmの道のりでした。

 

家に帰ってから、マップと一緒にもらったものを開いてみたら、地井武男さんのサイン入りのボールペンが入っていた。匝瑳市観光大使だったんだって。

歴史と季節を楽しむ謎解きハイキングin本庄 2022/04/17

駅からハイキングを利用したぶらぶら歩きもだんだんグレードアップして、とうとう新幹線で行くようになった。

あさま607号で本庄早稲田

 

本庄早稲田に降り立つと、おぉ、なにもないぞ!

最初に見えた建物が本庄早稲田の杜ミュージアムだった。この辺りからは埴輪がたくさん出土するようだ。

笑っているように見えるが威嚇の表情らしい

ミュージアムを出るとまたまた何もないところをひたすら歩く

牛さんもいる田園風景

しばらく歩くと畑の中に産泰神社(さんたいじんじゃ)があった。もともとは金鑚神社(かなさなじんじゃ)と言われていたようだ。昨今よくある支店の統廃合みたいなことがあったのかしら。

産泰神社

産泰神社

所在地 本庄市大字四方田二八九

産泰神社の創建は、鎌倉時代、武蔵七党のうちの一党である児玉党の一族の四方田五郎左衛門資綱が、この地に砦を築いたときに、守護神として勧請し祀ったのが始まりと伝えられる。その後の延元二年(一三三七)、北畠顕家が薊山合戦の際、戦勝を祈願したところ、勝利をおさめることができたので兜を奉納し深く感謝したという。
元禄年間(一六八八~一七〇四)にはいると京都吉田家の配下であった神主の杉田氏が奉仕するようになり、今でもその子孫は代代神主をつとめている。
なお、当社は女性の守護神として広く信仰を集め、毎年四月四日の例祭日には、近郷近在はもとより他県からも多くの参詣客が集まり、安産を祈って底のない柄杓を奉納する慣習がある。
なお、当日は本庄市指定文化財となっている杉田組による金鑚神楽が奉奏される。

昭和六十年三月
埼玉県
本庄市



 

ここから北へ向かって歩き、新幹線の線路と高崎線の線路を越えると、また金鑚神社があった。こちらは大きな神社だ。どういうことかしら。

金鑚神社

埼玉県指定文化財(有形文化財・建造物)

金鑚神社社殿

平成二十九年三月二十四日指定

 

金鑚神社は、中山道本庄宿の総鎮守として崇敬された神社です。 本庄実忠が弘治二(一五五六)年に本庄城を築いた際に、社殿の改造と神田の寄進を行ったと伝えられており、その後、本庄氏に代わって城主となった小笠原氏も当社を厚く信仰しました。当社には、小笠原氏が古河、ついで関宿へ転封となった後の寛永一六 (一六三九)年に、関宿城主小笠原忠貴が社殿を建立した際の祈願文が残されています。

現在の金鑚神社の社殿は、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、本殿は享保九(一七二四)年、拝殿は安永七(一七七八)年、幣殿は嘉永三(一八五〇)年の建築と伝えられています。建築年代の古い本殿は一間社流造で、壁面に彩色を伴う穏やかな表現の彫刻が、空間をもたせて配置されています。 建築年代の下る拝殿 は、入母屋造で、力強く密度の高い極彩色の彫刻で飾られています。幣殿は両下造で、その格天井には、武正南廬や小倉紅於ら幕末期の本庄で活躍した文人たちの天井画が描かれています。

埼玉県内の近世社寺建築は、彫刻装飾を多用する点に特色があ りますが、この本殿は壁面に彫刻が付く早い例で、県内における彫刻装飾の変遷を示す一つの指標として、高く評価されています。

平成三十年三月二十五日

埼玉県教育委員会 本庄市教育委員会

 

樹齢約350年と言われる金鑚神社境内のクスノキ

 

 

本庄は中山道の宿場町で、街道沿いに古い建物が残っている。

 

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

登録有形文化財

旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

この建物は、明治二十九年に建設された旧本庄商業銀行の寄棟 瓦葺二階建の煉瓦造の倉庫です。 かつて中山道の宿場町として栄えた本庄町は、幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治十六年に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹のまちとしての発展を遂げました。

この建物は、明治二十七年に開業した本庄商業銀行で、融資の担保となった大量の繭を保管するために建てられました。絹産業が盛んであった本庄町の繁栄を伝える貴重な建物です。

この建物は、屋根をキングポストトラスで支え、鉄扉を備えた窓には、繭を保管するために通気性を配慮して漆喰板戸と網戸が併置され、床下にも鋳鉄製の枠を備えた通気口を設け ています。壁面には、深谷の日本煉瓦製造の煉瓦が用いられ、当時一流の技師の設計による明治期を代表する近代的な建造物です。

平成二十五年三月

本庄市教育委員会

 

旧本庄警察署

埼玉県指定文化財

 旧本庄警察署

この建物は、明治十六年(一八八三)に本庄警察署として建てられた洋風建造物で、県内に残る貴重な近代化遺産の一つです。

木造二階建て、瓦葺きの漆喰塗り大壁造りで、正面二階のベランダにはアカンサスの葉を彫刻した木製列柱を設け、さらに洒落た手摺り金具も取り付けられています。またベランダ出口には半円窓が設けられ、室内には天井の灯火掛け部分に円形のレリーフが施されるなどモダンな造りが特徴となっています。

昭和十年(一九三五)に警察署が移転した後も、本庄消防団本部、簡易裁判所区検察庁、本庄公民館、本庄図書館として利用され市民に親しまれました。この間、何度か改修が行われ、外観が一部変化しまし たが、昭和五十五年(一九八〇)に建築当初の姿に復元整備され、歴史民俗資料館として開館し現在に至っています。

平成28年3月

本庄市教育委員会

 

田村本陣の門

この門、皇女和宮が御降嫁の際にくぐったといわれる。

中山道本庄宿

この後、高崎線本庄駅を通って南下し、本庄早稲田駅を目指す。

ゴール近くにマリーゴールドの丘公園があった。(マリーゴールドは咲いてなくて、芝桜の丘だった。)ここは昔、埴輪を焼いた登り窯だったようだ。

マリーゴールドの丘

埼玉県指定史跡

宥勝寺裏埴輪窯跡

平成二十一年三月十七日指定

宥勝寺裏埴輪窯跡は、古墳に立て並べるための埴輪を焼いた窯の跡で、この解説板の正面に見える大久保山丘陵の斜面に所在しています。平成十三年に、窯跡の範囲を確認するための調査を実施したところ、全部で五基の埴輪窯跡が、良好な状態で残されていることがわかりました。

④窯の形は、丘陵斜面の傾斜を利用してつくられた半地下式の登り窯で、長さ七メートル前後、幅一・五メートルほどの大きさがあります。一番下の部分に燃料の薪を入れるための焚口があり、その手前には作業を行うための平らな部分が広がっています。窯の内部には薪を燃やす部分や薪の炎で埴輪を焼く部分があり、一番上のところに煙を外に出すための穴が開いています。また、窯の周辺には、材料となる粘土を採掘する場所や、 埴輪を造形する工房などの施設もあったと考えられます。

窯のまわりからは、人物埴輪や馬形埴輪のほか、矢を入れる武具の一種「靫」、威儀具のひとつで大きな団扇のような形をした「翳」など、さまざまな形の埴輪が出土しました。これらの遺物から、宥勝寺裏埴輪窯が操業していたのは、六世紀後半ころと推定されています。この埴輪窯が立地する大久保山丘陵やその周辺の台地上には、数多くの古墳が築かれています。宥勝寺裏埴輪窯で焼かれた埴輪も、この近くの古墳に運ばれ、立て並べられたことが推測されます。

平成二十二年三月

埼玉県教育委員会 本庄市教育委員会


今回の旅の特典として、「運転手・車掌シミュレーター体験ご招待」というのがあった。応募条件は、このコースの謎解きに正解すること、新幹線に乗ってくること。。。

当たったら、孫が喜ぶぞ~と勇んで参加したが、帰宅してからアプリの参加ボタンをポチっていなかったことに気づいた。あ~ なんてこった! 

 

約9.7Km

 

おまけ… 旧本庄商業銀行煉瓦倉庫でもらった赤レンガの建物の番付表。訪ねる楽しみができました。

 

 

旧甲州街道を歩き大月の桜を満喫するハイキング 2022/04/10

 この日のハイキングはちょっと贅沢して特急列車に乗り、大月に行くことにした。
指定席でくつろいで過ごすのは久しぶり、本でも読もうかしら。。と思い、駅ナカの本屋さんで手に取ったのがこれ。

ま・く・ら 柳谷小三治

https://www.amazon.co.jp/dp/4062637774

 

小三治さん、死んじゃったなぁ。。

革ジャンでバイクに乗ったり、オーディオや音楽に造詣が深かったりで、勝手に若手のイメージを持っていたけれど、もう齢80になられていたのですね。

くすっとしたり、ほっこりしたり、2話も読んだところでもう大月に到着。さて、歩きますか!

 

まず最初は岩殿山丸山公園。途中、下からは垂直の岩盤が見えて、あの上に登るのかと慄いたが、丸山公園はずっと下の方だった。ホッ

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岩殿山

 それでも、急坂では足が前に進まない、進まない。若い人がどんどん追い抜いて行った。

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丸山山頂(444.4m)から

 

 絵に描いたような富士山と桜を堪能して下山。

大月には桃太郎伝説にまつわる地名や伝説が残り、市内にはゆかりの地が点在する。

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鬼の盃

岩殿山の赤鬼が夜な夜な酒盛りに使った盃だそうだが、う~ん、人が作ったものでしょ(笑)

 

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葛野川サイクリングコース

葛野川のせせらぎを感じながら車を気にせず歩けるサイクリングコース。川ではアユ釣りをしている人もいる。

 

サイクリングコースを南下し、中央自動車道をくぐってしばらく行くと「名勝猿橋」に出た。

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猿橋

橋脚がなく両岸から張り出した4層のはね木で支えられている独特の構造の橋。

commons.wikimedia.org

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猿橋と水路橋

広重の絵に近いのはこちらの風景か。。

 

猿橋から遊歩道でつながっているところに猿橋公園があった。桜も満開、芝生広場や遊具もあって、のんびり日向ぼっこを楽しんでいる親子連れが多かった。

その一角にこんな看板が。。。

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猿橋溶岩流
今より約6千年前の新富士火山古期溶岩流が、 富士山より延々30km以上を桂川に沿って流下してきた溶岩流の末端部です。 この溶岩は、 厚さ約9mの玄武岩からなり、上下限は 岩滓状の溶岩で、 冷却固化した時に中の気発性のガスが逃げた穴が無数に見られます。 溶岩流中心部には、 材木を並べたように見える柱状節理がきれいに発達しています。
大月市

 

こんなところまで富士山の溶岩が。。こわいですねぇ。

ちなみに、いつもの地図に富士山が入るよう縮尺を調整すると、紫色の線の右の端がこのあたりだ。

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さて、行程も終わりに差し掛かり、大月駅に向かって歩いている。

途中、高いところから太いパイプが降りている。なんだろうと思って写真を撮ったが、発電所のようだ。(もっとも発電設備はこの下にあるみたい)

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東京電力駒橋発電所

駒橋発電所山梨県の東部に位置し、富士山を源とする桂川より年間を通して豊富で安定した水量が確保できます。
 明治40年(1907年)に発電所の運転を開始した歴史のある発電所で、工業化が進む大電力需要地である京浜地区の電力供給ニ-ズに応えるため建設されました。

富士の国やまなしインフラガイドより

 

最後に訪れたのはやはり桃太郎伝説のある神社

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厄王大権現(桃太郎神社)

桃太郎と鬼が話し合いをした場所と言われているそう。珍しい鳥のさえずりが聞こえたが種類はわからない。

出逢った春の花も載せておこう

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ヤマエンゴサク、ジュウニヒトエ
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ムラサキケマン、キケマンソウ
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ニリンソウタチツボスミレ

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カテンソウ

 

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途中で道を間違えたりして12.3Km

もう紫外線が強いので、そろそろお散歩の季節は終了かも。